大久保忠隣は、松平家の重臣・大久保忠世の長男として三河(愛知県岡崎市)にて1553年に生まれました。 1563年から近習として仕えるようになり、1568年の遠江・堀川城攻めにて初陣を飾り、敵将の首をとる武功をあげています。 1572年には、武田信玄との三方ヶ原の戦いの際に、徳川勢が総崩れとなった中、徳川家康の傍を離れず警護して浜松城まで退却することに成功したことから、忠節をたたえられて奉行職に列しました。
1610年に徳川幕府の老中に就任すると、第2代将軍・徳川秀忠政権における武功派の代表格となり、大老格の本田正信と対立します。 大久保忠隣が大阪城の豊臣秀頼に内通していると本田正信が徳川家康に報告したため、謀反の疑いをかけられます。 謀反の疑いは無実に過ぎませんでしたが、キリシタン鎮圧のため大阪へ赴いたところを突如、改易されました。 その後、近江にて井伊直孝の預かりとなり、彦根市の龍潭寺にて幽閉されました。 なお、大久保忠隣は出家すると渓庵道白と号していましたが、許されることなく1628年に死去、享年75歳でした。