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市指定文化財 鹿島家住宅

彦根市肥田町は、彦根市南部を流れる宇曽川の南側に位置し、湖東平野の広大な水田地帯の典型的な農村集落です。しかし、戦国時代には土豪・高野瀬氏の居城であった肥田城と密接な関係にあった集落であり、鹿島家住宅のある小字登町もまた肥田城の城下町を形成していました。

 鹿島家住宅は、登町の通りの南に位置しており、間口が17.8m、奥行きが25.9mの長方形の敷地に、主屋・外便所・「かわと」そして奥に土蔵などが存在します。主屋は道路に妻面を見せる入母屋造りで、当初は草葺でしたが、現在はトタン板で覆われています。間取りは整形4間取り型で、入口左から6畳の「でい」と6畳の「ざしき」、奥に5畳の「かまど」と6畳の「おいえ」と呼ばれる部屋が並び、入口から奥に向かって「にわ」と呼ばれる土間が伸びています。「ざしき」には「とこ」と仏壇が備えられ、外には庭が広がっています。この「ざしき」と「でい」には縁側が付きます。「おいえ」の北西には畳面より一段高くなった半間の押入れが設けられています。同様に「かまど」と呼ばれる台所も北西側半間に板間となっています。
 入口に入った「にわ」には桶風呂が据えられています。桶風呂は桶の横から入る蒸し風呂で、愛知川以北に分布する特有の風呂です。屋外の「かわと」から汲んできた水を桶風呂に入れ、柴を燃やして湯を沸かします。入浴時には、前室の床机状の台を倒し、その上で掛かり湯をして桶風呂に入ります。床机状の台は簀の子になっており、掛かり湯は簀の子の下にある漏斗で集められて、外に付設された小便所と共用の便槽に流れ込みます。掛かり湯は、小便とともに肥料として有効利用が図られるよう工夫されています。桶風呂の焚口を土造りから煉瓦に変え、目隠し壁や扉が付設されていますが、これらは桶風呂の下部に「昭和41年9月」の墨書のあることから、この時期に改修したものと推測されます。奥の「にわ」にある「おくどさん」を土造りから煉瓦造りに変更したものも、おそらく同期のことでしょう。
 「にわ」のもっとも奥には「みずや」があり、「いど」と「すいもn」が設けられています。「いど」は湧き水の井戸であり、規模の小さなものです。一帯に花崗岩の板石を敷き詰めています。この「みずや」は昭和45年に北西側の隣地を幅1間分購入して、下屋を架け、外側にL字型に増築したものです。
 主屋の「つし」は簀の子天井として収納に利用されています。「にわ」の上部の「つし」は比較的低い位置にあり、風呂や煮炊きに使用する柴などが収納されていました。「でい」と「かまど」の上部も収納に利用されていたようですが、「にわ」上部よりかなり高いため梯子が架けられています。「ざしき」と「おいえ」の天井は棹縁天井であり、収納空間としての利用はなかったと考えられます。
 主屋の東には、水路に接して「かわと」の外便所があります。「かわと」は幅が約1間あり、花崗岩製の切石を用いた階段からなっています。上部には小屋根が架けられています。肥田の地は水量の豊かなところであり、かつては「かわと」を用いて食品などの水洗いが行われていたのでしょう。外便所は半間×1間半の小屋を3分割して両端を用便室とし、中央を扉の取り合い部としています。両端の用便室の地下には深さ約0.8mの便槽が配されています。
 彦根の地は、彦根藩の城下町であるとともに、彦根藩領の豊かな田園地帯でした。鹿島家住宅は、彦根藩領であった湖東地方の江戸時代後期(19世紀後半)の農家の面影を良好に伝える数少ない住宅であり、戦国時代の肥田城跡の歴史的景観とともに、後世に守り伝えるべき貴重な歴史的建造物であるといえるでしょう。


※外観のみで、内観は非公開となっております。

市指定文化財 鹿島家住宅

滋賀県彦根市肥田町