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石碑 天九郎俊長淬刃之水の碑

彦根市甘呂町に「天九郎俊長淬刃之水(てんくろうとしながさいとうのみず)」という石碑がある。「淬」の漢字は「淬(にら)ぐ」とも読み「赤熱した鉄を水に入れて鍛える。焼きを入れる」という意味だ。井戸があり、今も渾々と清らかな水が湧いている。「天の井」という。

 「日本号」とは、黒田節「酒は呑め呑め呑むならば/日本(ひのもと)一のこの槍を/呑みとるほどに呑むならば/これぞまことの黒田武士」の歌詞がよく知られている日本一の槍のことで、天下三槍の一筋「日本号」のことである。ちなみに、天下三槍とは、日本号・御手杵・蜻蛉切。
 日本号は「元を正せば禁裏、つまり天皇家が所蔵した一筋だ。正親町天皇(在位1560〜1586)から足利義昭へ下賜され、織田信長の手に渡り、豊臣秀吉が所有した由緒正しい品である。ちなみに、秀吉は後陽成天皇から直に賜ったという説も唱えられており、由緒正しいにも関わらず無銘である理由は、禁裏に遠慮した秀吉が、最初は太刀だったものを恐れ多くも腰に佩くことはできないとして、槍に直させたためだといわれる。頭上に高く掲げる槍ならば、天皇に対して不敬には当たらないという判断だ。」(『名刀伝』牧秀彦著)
 その後秀吉は、この槍を、天正18年(1590年)小田原の役の韮山城攻めで功績のあった福島正則に褒美として与えた。福島正則は賤ヶ岳の七本槍として活躍した英雄であり、秀吉の側近武将の一人である。そして……、日本号は黒田武士、母里友信(通称・太兵衛)に呑みとられ、日本一有名な黒田節の槍となったのである。
 由緒書きに「平安朝甘呂創成時代より当地唯一の飲料水として使い来たれる霊泉にて甘呂井ともいう。後世俊長この水をつかい槍をうち天下の名工となり天九郎と名づく名工を産みし水なれば天九郎の井とも稱し今に保存されて居る」とある。
 そしてこの天下の三槍の一筋「日本号」は「江州甘呂の住人(現彦根市甘呂町)天九郎俊長が鍛えた名槍である」と『彦根史話』は伝える。
 俊長は、嘉元年間(1303〜1305)に生まれ、貞治年間(1362〜1367)の末、六十余歳で甘呂の地で死んだと伝えられている。足利幕府が創設され、南北両朝が対立抗争するなど騒乱の只中にあった時代である。父友長は甘露寺の住僧だったが、京都の来(らい)国俊に作刀の技を習い、甘呂に帰ってさらに精進した結果、相当名を知られるに至った。俊長はこの父に鍛造の技術を習う。父の死後は、名匠とたたえられた相州正宗の養子高木貞宗(江州高木荘に住す)について精錬の道を究めて甘呂に帰り、「天の井」の水に己の技をみがいた。
 俊長は刀のみだけでなく、とくに槍の名工とたたえられ、「古今銘尽大全」には、「甘露物」として記録されている。
 日本号は無銘、福岡市博物館の所蔵品である。天九郎俊長が鍛えた槍かどうかは定かではないが、甘呂に天下の名工がいたことは確かなようだ。

石碑 天九郎俊長淬刃之水の碑

滋賀県彦根市甘呂町