石碑 百閒橋跡

通称「百間橋」は、当時佐和山城の西に広がっていた松原内湖にクランク状に架けられた通路のうち、松原側(琵琶湖側)に設けられた木橋のことで、古絵図などの記録から幅三間(約5.4m)、総延長三百間(約540m)に及ぶものと伝えられています。

石田三成はその佐和山統治期に松原内湖の西側を三ヶ所切り、運河とするとともに松原と東の蒲生坂に向けて、内湖に土堤(大道・大海道)と百間橋を架けました。
関ヶ原合戦後、井伊家が彦根に入り佐和山城は取り壊されます。その際に経済性のある百間橋は残されたものの彦根城下の整備で街道筋が佐和山の南を通ることとなり、北側のルートは次第に寂れていったと思われます。そして百間橋は昭和の時代まで残りました。

嶋左近が石田三成配下の優秀な人材であることを表現した「三成に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近に佐和山の城」という有名な歌がありますが、これが後には「三成に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近に百間の橋」と、少し文言が変わったものもありました。

石碑 百閒橋跡

所在地滋賀県彦根市古沢町