野良田表の戦い

肥田城は六角氏の命により築かれた高野瀬氏代々の居城ですが、高野瀬秀隆の代に浅井氏に通じたため、永禄2年(1559年)、六角承禎の攻撃を受けました。

肥田城の守りは堅く、そこで一計を案じた承禎は、城の下手一帯に包みを築き、近くの宇曽川や愛知川の水を堰き入れるという挙に出ました。世にいう「肥田城の水攻め」です。水かさは日に日に増して城中も、水浸しとなったようですが、洪水により堤が切れ、水攻めは失敗に終わったと伝えています。このとき築かれた堤は、近年の整備でなくなるまで、その姿を見ることができました。
水攻めの失敗により、一時は退却した六角承禎ですが、翌年8月、再び軍を整えて高野瀬秀隆を攻めます。秀隆から知らせを聞いた浅井長政は、肥田城の西に所在する野良田集落の東南一帯で相対することになりました。戦は、浅井方の百々内蔵助と六角方の蒲生右兵衛太夫によって火ぶたが切って落とされました。当初、両者は互角の戦いを繰り広げましたが、やがて、六角方の側面攻撃が加わって内蔵助は討死。このことを知った長政は味方に激を飛ばし、総攻撃を命じました、長政自らが先頭に立ち、野良田一帯が大戦場になったようですが、やがて六角氏は総崩れとなって敗走しました。
「肥田城の水攻め」と「野良田表の合戦」の2度の勝利により、浅井長政は犬上・愛知の2郡を手中に収め、湖東平野に大きく勢力を伸張させることになりました。

野良田表の戦い

所在地滋賀県彦根市野良田町