石碑 谷鉄臣屋敷跡

谷鉄臣は、文政5年(1822)に、京町3丁目で渋谷家の長男として生まれました。名は騮太郎といいました。幕末・明治の彦根藩士・医者。字は百錬、号は大湖・如意山人。
17歳のときから、彦根へ帰ってくる27歳まで、10年以上を江戸、東北、越後、長崎と移りながら、儒学や蘭学を幅広く学んできました。父親がご殿医をつとめていましたが、病気になったので、父親の後をついで医者になり、滋賀県では初めてという種痘の技法を広めました。
直弼が思いもかけぬ最後をとげたのち、力を強めていた薩摩・長州・土佐などの武士たちが、様子を探るため次々と彦根へ近づきました。こうした世の中の動きの中で藩主から(特に家老・岡本半介の強い意見で)認められ、騮太郎他3名が彦根藩の窓口係として伊藤博文や井上馨、谷干城らと面会し、藩の考えを知らせるとともに、協力し合うことを約束しました。こうした大切な話し合いがたびたび持たれたところが、渋谷家の一室でした。
左院一等議官・宮内省京都支庁御用掛となり、従四位勲四等を賜わります。官を辞したのち、京都に住し、儒学や風雅の道に遊びました。明治38年(1905年)享年84才。

石碑 谷鉄臣屋敷跡

所在地滋賀県彦根市京町