開催期間
2022年8月20日(土) 〜 11月19日(土)
参加方法
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スポットで画像認識
現地でスマートフォン等をかざし、画像認識させてください。妖怪が出現します。
「KOTO 妖怪 SPOT」は、めぐりんこで楽しめる1市4町(彦根市・愛荘町・豊郷町・甲良町・多賀町)の湖東地域に点在する妖怪スポットをサイクリングで巡るARスタンプラリーです。
妖怪スポットを3か所以上訪れ、「KOTO妖怪SPOT ARラリーマップ」画面を夢京橋あかり館で提示するとポストカードのプレゼントや「淡海の妖怪」展に無料で入場できる特典も。
地域に出没した妖怪を解説した「近江・湖東ゴーストハンティング」36ページの冊子付き
【彦根市】彦根城大手門、近江鉄道高宮駅
【多賀町】多賀大社、あけぼのパーク多賀
【甲良町】道の駅 せせらぎの里こうら、勝楽寺
【愛荘町】愛知川ふれあい本陣(中庭「回廊・テラス」)、金剛輪寺
【豊郷町】豊郷小学校旧校舎群、犬上神社
2022年8月20日(土) 〜 11月19日(土)
現地でスマートフォン等をかざし、画像認識させてください。妖怪が出現します。
ARラリー開催期間 中、「KOTO 妖怪 SPOT」を訪れ、スマートフォン等で画像認識して妖怪を出現させてください(スマートフォン等で写真の撮影が可能です)。
妖怪スポットを3か所以上訪れ、「KOTO 妖怪 SPOT ARラリーマップ」画面を夢京橋あかり館(彦根市本町1丁目)のスタッフに提示いただくと、以下の特典が受けられます。
※大人・子どもに関係なく、条件をクリアしたスマホ1台につき1名様とさせていただきます。
妖怪の写真を撮って応募すると、毎月入選者3名に「淡海の妖怪」グッズ(1,000円相当)がもらえるフォトコンテストを開催中。
開催期間中(9月・10月・11月)毎月19日
彦根城の琵琶湖側、観音堂筋(馬場1丁目)の辺りは一つ目小僧・釣瓶落とし・白馬の首・河太郎・どち・老狐などの妖怪が現れたところである。
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『高橋敬吉 彦根藩士族の歳時記』(藤野滋編・サンライズ出版)には、明治7年(1874)彦根藩士族の家に生まれた高橋敬吉が、大人になるまでの明治10〜20年代の彦根の風俗習慣など様々な記憶が綴られている。敬吉は観音堂筋の近くで暮らしていた。春、水が温むころになると彦根城の堀で魚釣りをして遊んだ(現在は堀での魚釣りは禁止)。堀が深く、はまったら「どち」や「河太郎」に引かれて死ぬと、祖母や母が心配して遠くへ行く事を許さなかった。
「大漁をするつもりで大きな重い手桶を提げ、裏から花木の邸を通り抜け、観音堂筋の堀で江坂の家の前から野澤の辺り迄を漁区として雑魚釣を演(ヤ)った。偶(タマ)には遠く高橋から御蔵の辺りまで出かける事もあった」と記している。
少なくとも明治時代の観音堂筋には水の中に人を引きずり込む妖怪がいたということである。
「どち」はたいていスッポンのことをいう。『日本妖怪大事典』(村上健司編著)には「岐阜県加茂郡八百津町、郡上郡でいう河童。鼈(スッポン)のようなもの」とあるので、おそらく、鳥の口のような「河太郎」とスッポンの口のような「どち」がいたのだろう。
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彦根の大藪辺りでは河太郎を「ガッタ」と呼ぶ。「ガッタが出るから早く帰って来い」と言われたそうだ。
ケセランパサランという毛玉の妖怪がいる。別名をヘイサラパサラ、ヘイサラバザル、或いはテンサラバサラ。呪文のような名である。『千と千尋の神隠し』の「ススワタリ」、『となりのトトロ』の「まっくろくろすけ」を白い毛玉にした感じだろうか、何処からともなくフワフワ、コロコロと風とともにやってくる妖怪である。ケセランパサランを持っていると幸運が訪れるといわれ、桐の箱に収めて餌(えさ)に白粉(おしろい)を与えて大切に扱ったという。最近ではケセランパサランは、幸運、白粉、その名のイメージからだろうフェイシャルデザインの店舗名にもなっている。『むかしむかし近江国に』(滋賀県商工労働観光物産課1985)に「形状は毛玉であり、まん丸の中心から毛のはえているものである」と長浜市高月町のケセランパサランが紹介されている。
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ケセランパサランだと思われる妖怪は、米原市近江町では「狐の毛玉」、彦根市高宮町では「おたまさん」という名前で伝えられている。
「狐の毛玉」は直径3~4㎝の白い毛玉で、これを拾ってくるとその家はお稲荷さんを祀らなければならない。粗末に扱うと火難をこうむるともいわれる。(『民俗文化』通巻365号・滋賀民俗学会)。
「おたまさん」の漢字は「お玉さん」か「お珠さん」だろう。実際に彦根市高宮町には昭和の終わりくらいまで飛んできたようである。「春先、黄砂が降るような西風の強い日、どこからともなくフワフワと白い毛玉が飛んできた」、「綿毛みたいものの先が金色をしている」「縁起がいいと、瓶に入れて神棚に置いていた」とリアルに思い出を語る人が今もいる。
他所から飛んできたそれを見つけた時点が幸運なのであって、おそらく、姿を消すまでがケセランパサランやオタマサンの役割なのである。望めば今も出会うことができる妖怪なのだ。
八咫烏(やたがらす)は古事記・日本書紀の「神武東征」の物語に登場する烏で、太陽の化身で三本の足がある。現代では世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産、熊野三山に共通する「導きの神鳥」として信仰されている。また、勝利へ導く願いが込められた日本サッカー協会(JFA)のシンボルマークにもなっている。おそらく日本で一番有名な烏である。
淡海にも、「先食烏」という名を持つ特別な烏がいる。多賀大社のお使いは「烏」である。『多賀大社由緒畧記』には「本殿の脇に据えられた先食台と呼ばれる木の台に神饌(しんせん)の米をお供えする。すると、森からこの烏が飛んできて、神饌に穢れがないとこれを啄(つい)ばむ。古くは、もし烏が啄ばまない場合は、改めて神饌を造り直したという」と記されている。先食行事といい、毎朝行われている。
また、『復刻 久徳史・久徳こぼればなし』には、「社伝によると、古来、多賀大神の御使者として常に社頭を離れない二羽の烏があって、神供の一飯を置いて拍手を打つと烏が忽(たちま)ち飛び来って之を喰べる。若し喰べない時には、本殿の西方一町余の末社日向神社の境内に一飯を供える。これでも喰べない時には、神社の東一里余の栗栖の調宮の境内に一飯を供える。それでも喰べない時には、同所より二十余町、東の杉坂の神木の下に供える。それでも尚、喰べない時は、火の穢れ、又は凶事の廉(かど)ありとして再び調理をやりかえることになっている」と記されている。
この神饌を「もっそう」という。もっそうは仏前に供える飯に用いる円筒状の木枠で、この型で抜いた飯が「物相飯(もっそうめし)」である。多賀大社参詣曼荼羅図(安土桃山時代)にも先食台と先食烏が描かれ、神仏習合の時代の神饌が今も受け継がれていることがわかる。
神饌を烏に食べさせる神事は、「御烏喰神事(おとぐいしんじ)」と呼ばれ、世界遺産「厳島神社」では、「御烏喰式(おとぐいしき)」、熱田神宮の摂社である御田神社(みたじんじゃ)では、「烏喰の儀(おとぐいのぎ)」が毎年行われている。
日本の伝統的な長さの単位「一丈」は約3メートル。多賀町から永源寺にかけて出没する身の丈6メートル余りの僧侶の姿をした妖怪である。太郎坊天狗(東近江市小脇町)など、天狗は「〜坊」という名で語られることが多いが、二丈坊は天狗ではない。
犬上川最上流の多賀町萱原(かやはら)では「ニジョボン」と呼ぶ。「ガワソ」がニジョボンに化けると伝わっている。カワソ(ガワソ)は河童の別称だが、萱原では川獺(かわうそ)のことをいう。川原から聞こえる奇妙な音・空からぱらぱら降ってくる砂・つむじ風・突然の荒天など、不思議な現象や暮らしに厄(わざわい)をもたらす現象は全て、ニジョボンが引き起こす。子どもが悪さをすると「そんなことをしていると、ニジョボンが来よるほん」と叱った時代があったという。
犬上川下流の多賀町敏満寺では狐が二丈坊に化け、妖怪「ぬりかべ」のように行く手を阻むという。狐が化けているのだから二丈坊の足元を何かで払えばいなくなると、対抗策も伝わっている。
東近江市永源寺にも二丈坊は出没する。「そんなことをしていると、山を越えて二丈坊がやってくる」と子どもを叱ったという。多賀と永源寺は鈴鹿の山道でつながる何らかの交流があったにちがいない。
妖怪の威をかり、近所の子を我が子のように叱ることができた時代があった。地域で子どもたちを見守るコミュニティの復活を願う人々の熱い視線を、二丈坊をはじめ妖怪たちは感じているに違いない。妖怪はコミュニケーションをスムーズにするらしい。
萱原の妖怪としてニジョボンが蘇ったのは20年ほど前のことである。桜の一木に彫られたニジョボンがバス停に立っている。
二丈坊のために言っておくが、子どもを脅し恐がらせた伝承はない。まして、連れ去った事実もない。脅し文句は人の勝手な都合でそう語り継いだ……。妖怪にとっては迷惑な話である。
西明寺(甲良町池寺)は承和元年(834)平安時代初期、仁明天皇の勅願により三修上人(慈勝上人)が開山したと伝わる古刹である。「滋賀新聞」(昭和26年2月14日付)に「仙人姿の天狗」のことが掲載されている。
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「(前略)犬上郡東甲良村字池寺、名刹西明寺を去る四日訪れた大和高田市大日堂住職大田宗源師(三六)は三週間の予定で本堂に參ろう、毎朝四時から午前中讀経を續け祈願をこめているが数日前いつもの通り右腕をロウソクの燭台にして荒修行をしていると本堂のトビラが二三寸ひらいてスキ見する者があるので目を注ぐと仙人姿の『天狗』三体が見ているのでハツとびつくりしたがくだんの『天狗』は『邪魔はせんから修行を續けよ』と言葉をかけた。
天狗は大抵山伏の装束を纏っているが、仙人姿であるところが西明寺独特で興味深い。
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ところで、豊郷の昔ばなしに西明寺の大天狗が雨降野の高僧と囲碁をして負け、九条野山の水源を与えたという話がある。
西明寺の周囲の山麓から広がる広大な農地には、北に犬上川があり、南には宇曽川があるが、川らしい川が見当らない。西明寺の山林の水を頼るしかなかったようである。水を農耕用に提供してくれる山や木に対する感謝の気持から生れた水への信仰は、西明寺の薬師如来への信仰となり、農民から支えられることにより、隆盛を誇ったと考えられる。
西明寺の大天狗は囲碁の達人だったという。仙人姿であったかどうか気になるところだが、大天狗を負かした雨降野の高僧とは誰なのか。九条野山とはどこのことなのか……。妖怪が語りはじめる地域の歴史は謎ばかりである。
狐は変化(へんげ)の天才である。大抵は美しい女性に化ける。人をだます狐もいれば、受けた恩返しもする。幻術で幻を見せることも、人の心を読むことだってできる。神の使いにも怨霊にもなる。璞蔵主は僧侶に化けた白い狐である。
甲良町正楽寺の古刹 勝楽寺は、「婆娑羅」の典型として知られる佐々木道誉(1296~1373)の菩提寺である。勝楽寺城址に「狐塚」があり、二つの璞蔵主の話が伝わっている。
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勝楽寺に璞蔵主という住職がいた。その弟の金左衛門が狩りで動物を殺していることに心を痛めていた住職は、日々、弟に命の尊さを説いていたが、金左衛門はそれを聞き入れようとしなかった。ある日、住職が留守のときに一匹の白狐が璞蔵主に化けて、「殺生をする罰が当たるぞ」と金左衛門を戒めた。しかし、正体を見破った金左衛門は、白狐を柱につるして殺してしまう。後にそのことを知った璞蔵主は弟を諭し、反省した金左衛門は、以来狩りをやめ、勝楽寺山中に塚をつくり白狐を長く弔ったという。
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勝楽寺に璞蔵主という住職がいた。弟の金右衛門が狩りで動物を殺していることに心を痛めていた。住職は日々、弟に命の尊さを説いていたが、金右衛門はそれを聞き入れようとせず殺生を続けていた。ある日、璞蔵主が外出して山道にさしかかったとき、金右衛門は白狐と見誤り、璞蔵主は非業の最期を遂げる。そこで、金右衛門は初めて兄の殺生の戒めに気付いた。
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この璞蔵主の話を元に狂言『釣狐(つりぎつね)』が生まれたといわれている。狂言界では、「猿に始まり狐で終わる」という言葉がある。『靭猿(うつぼざる)』の猿役で初舞台を踏み、『釣狐』の狐役を演じて初めて一人前となるという意味だ。ちなみに、狂言では「白」の字をあて「白蔵主」と書く。
金剛輪寺(愛知郡愛荘町松尾寺874)に「油坊主」という妖怪が現れることを知る人は少ない。
昔、この寺の若い坊さんが、本坊から本堂まで長い石段を登って、朝事、夕座のおつとめをしていた。朝事の前に、本堂の灯明をつけに行くことは辛い修行であった。冬、種油を壺から油さしに移し、雪の積もった石段を登るのは苦行であったに違いない。若い坊さんは、毎日毎日定められたように油を本堂へ運んでいるだけで、面白くない。ある日、本堂のたいせつな灯明油をくすねて商人に売り、できたわずかな金を持ち、町へ遊びに行った。その後、ふとしたことから原因不明の病気になり、もだえ苦しみながら亡くなった。
そうしたことがあってから、毎夜毎夜、金剛輪寺の総門あたりで「油かえそう。油かえそう。わずかのことに、わずかのことに……」、という悲痛な声が聞こえ、観音堂までの石段を、ひょろひょろ歩いて行く黒い影法師が現れるようになった。その手には油を持っているのだという。
油坊という妖怪は淡海でもよく知られている。『日本妖怪大事典』(村上健司編著)によれば、「滋賀県野洲郡欲賀村(守山市欲賀町)でいう怪火。晩春から夏にかけての夜に現れるという。火炎中に多くの僧形が見えるのでこの名前がある。比叡山の灯油料を盗んだ僧の亡魂が化したものという。また、比叡山の西麓に夏の夜に飛ぶ怪火も油坊という」とある。油坊は怪火だが、油壺を手に持つ黒い影法師というのは、金剛輪寺にだけ出没する妖怪だろう。
「油かえそう。わずかのことに」と呟く油坊主の顛末は人ごとではないのである。
釣瓶は、桶に綱を取り付け、井戸に落とし水を汲み上げる道具である。
妖怪「釣瓶落とし(釣瓶下ろし)」は、暗い夜道、木の下を通ると梢(枝)から突然、勢いよく落ちて(下りて)きて通行人を驚かす妖怪だ。桶に人を入れて掬い上げ、さらって食い殺したりもする。淡海にも数多くの伝承が残っている。
● 東円堂城跡(愛知郡愛荘町東円堂)の南西の角近くにヨノミの木があり、釣瓶落としが出た。風呂桶ほどの大きさの釣瓶で人をさらっていくのだという。この大きさは淡海一であり、ひょっとすると日本一かもしれない。
● 北菩提寺(東近江市北菩提寺町)の城跡に大きな槻があり天狗が枝の上で釣瓶を操り子どもをさらっていく。
● 長浜市高月町大円寺には、松の木にいる「半カケババ」が釣瓶をおろす。子どもは釣瓶の中に吸い込まれるように入ってしまい、梢で生き血を吸い取られるという。「半カケババ」は唯一高月にだけ伝わる妖怪名。
● 彦根市芹橋八丁目の百日紅、観音堂筋(馬場一丁目)のダマの木、米原市山東町西大野木の楠にも釣瓶落としの伝承がある。
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釣瓶落としは「暗い夜道」の「大木の梢」に出没するのだが、社寺の神木まで危険木として切り倒してしまう時代である。現代、そういう場所は皆無といっていいだろう。釣瓶落としは絶滅したかのように思われていたが、実は時間を操り「昼と夜を逆転させる」妖怪として生まれかわっている。
秋の急速に日が暮れる様を「秋の夕陽は釣瓶落とし」という。落ちるという物理的現象から時間の変化へ……「釣瓶落とし」は現代に適合したニュータイプの妖怪といえる。但し、地方都市が平準化し個性を失ったように、釣瓶落としも出没した木や地域の固有性を失っていくのは残念なことである。釣瓶落としにとってみれば、地域の呪縛から解き放たれたのだろうが……。
平将門は平安中期の武将で、下総北部(茨城県西部)を地盤とする当時の関東の最強豪族だった。東国に独立国家をつくる野望を抱いたが、天慶3年(940)平貞盛・藤原秀郷に攻められ敗死する。関東八州を制圧し、新皇を名乗った将門は東国の英雄であり、非業の死は伝説を生み怨霊として語り継がれた。
淡海では大津市、彦根市、愛荘町に伝説が残っているという。彦根市は「平流山(荒神山)」、愛荘町は「のまず(野間津・不飲)の池」、「山塚(将門塚)」、「歌詰橋」である。これらの伝説は「将門の首が京に運ばれて晒し首にされた」ことに関わっている。
中山道を南へ走ると豊郷町と愛荘町の境に宇曽川が流れ、「歌詰橋」という名の橋が架かっている。橋の近くにある看板に、橋の名の由来が記されている。
『天慶三年(九四〇)平将門は、藤原秀郷によって東国で殺され首級をあげられた。秀郷が京に上るために、中山道のこの橋まできたとき、目を開いた将門の首が追いかけてきたため、将門の首に対して歌を一首といい、いわれた将門の首はその歌に詰まり、橋上に落ちた。そこがこの土橋であったとの伝説がある。以来、村人はこの橋を歌詰橋と呼ぶようになったのである』。
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橋の上に落ちた将門の首はどうなったのか……。昭和48年に発刊された『日本の首塚』(遠藤秀男 雄山閣出版)には愛知郡千枝村の将門首塚伝説として「空をとんできた首が落下したので祀ってやった。ところが後で塚からぬけ出して宇留川を流れ、里人にひろわれて平流山上に葬られた。この山塚に祈ると武器類を貸してくれたと伝えている」と記されている(宇留川は宇曽川のこと)。
平流山上とは何処か……。『彦根 明治古地図 一』(彦根市)に平流の地名が残っている。場所から考えて荒神山であり荒神山神社をその候補地に指摘する説がある。
犬上川上流、大瀧神社(多賀町富之尾)の辺りは奇岩を縫うように流れる「大蛇の淵」に面して鎮座する。「滝の宮」として知られ、10メートルほど滝があった。「多賀参詣曼荼羅」(安土桃山時代)の右下に稲依別王命(いなよりわけおうのみこと)と思しき人物と、滝を背景に対峙する大蛇(龍)が描かれている。
稲依別王命が狩に出て昼寝をしていると、大蛇が現れ頭上から狙おうとした。連れていた犬(小白丸)が気配を察知し主人を守ろうと吠えたが、稲依別王は狂ったように吠え続けるので、太刀で犬の首をはねてしまった。犬の首はそのまま樹上に舞ったかと思うと、大蛇の喉に食らいついたまま落ちてきた。大蛇はしばらくのたうちまわったが、やがて事切れた。稲依別王は忠犬の首をはねたことを悔やみ、小白丸のために祠(犬上明神)を建て、胴を埋めた場所には松を植えたという。これが犬胴松である。
そして、稲依別王命はこの地を犬上(犬咬み)と名づけて定住し、その後、子孫が犬上氏を名乗るようになった。遣隋使・遣唐使として知れられる犬上御田鍬は、稲依別王命の後裔にあたる。また、稲依別王命は農桑の業を民にすすめ、「稲神」と崇められた。「稲神」がなまり「犬上」となったとする説もある。
小白丸の首はどうなったのか……。
犬上郡豊郷町八目に「犬上神社」がある。実はこの神社は「犬頭明神」とも呼ばれ、稲依別王命の屋敷があったところともいわれている(犬上の君遺跡公園)。二つの神社は同じ伝説を語り継いでいる。