開催期間
2023年9月23日(土) 〜 12月24日(日)
参加方法
妖怪をタップして固定
妖怪が現れたら逃げないようタップして固定します。
封印アクション
空中にスマートフォンで「五芒星」を描きます。封印アクションをするとき、スマートフォンを落とさないよう注意してください。
封印完了
妖怪の名前が現れたら封印完了!!
「湖東 妖怪封印ARラリー」は、1市4町(彦根市・愛荘町・豊郷町・甲良町・多賀町)の湖東地域に点在する妖怪スポットを巡るARスタンプラリーです。
どの妖怪から封印してもOK!!
妖怪スポットを訪れ、スマートフォンに封印した画面を「四番町ダイニング(彦根市本町1丁目7-34)」で提示すると特典を受けとることができます。
但し特典は、大人・子どもに関係なく、条件をクリアしたスマートフォン1台につき1名様とさせていただきます。
2023年9月23日(土) 〜 12月24日(日)
妖怪が現れたら逃げないようタップして固定します。
空中にスマートフォンで「五芒星」を描きます。封印アクションをするとき、スマートフォンを落とさないよう注意してください。
妖怪の名前が現れたら封印完了!!
【彦根市】彦根城周辺、近江鉄道高宮駅
【多賀町】多賀大社、萱原二丈坊モニュメント周辺
【甲良町】西明寺周辺、勝楽寺
【愛荘町】依智秦氏の里古墳公園、金剛輪寺
【豊郷町】豊郷小学校旧校舎群北側駐車場、犬上神社
河太郎は河童(かっぱ)のこと。彦根城の琵琶湖側、観音堂筋(馬場1丁目)の辺りは一つ目小僧・釣瓶落とし・白馬の首・河太郎・どち・老狐などの妖怪が現れたところである。
『高橋敬吉 彦根藩士族の歳時記』(藤野滋編・サンライズ出版)には、明治7年(1874)彦根藩士族の家に生まれた高橋敬吉が、大人になるまでの明治10〜20年代の彦根の風俗習慣など様々な記憶が綴られている。「春、水が温むころになると彦根城の堀で魚釣りをして遊んだ(現在は堀での魚釣りは禁止)。堀が深く、はまったら『どち』や『河太郎』に引かれて死ぬと、祖母や母が心配して遠くへ行く事を許されなかった」と記している。
彦根の大藪辺りでは河太郎を「ガッタ」と呼ぶ。「ガッタが出るから早く帰って来い」と言われたそうだ。ガッタも河童の別名である。その他、ガワタ、ガタロなど地域によって独特の呼び方がある。
ケセランパサランという毛玉の妖怪がいる。別名をヘイサラパサラ、ヘイサラバザル、あるいはテンサラバサラ。呪文のような名である。『千と千尋の神隠し』の「ススワタリ」、『となりのトトロ』の「まっくろくろすけ」を白い毛玉にした感じだろうか、何処からともなくフワフワ、コロコロと風とともにやってくる妖怪である。ケセランパサランを持っていると幸運が訪れるといわれ、桐の箱に収めて餌(えさ)に白粉(おしろい)を与えて大切に扱ったという。
ケセランパサランだと思われる妖怪は、彦根市高宮町では「おたまさん」という名前で伝えられている。「おたまさん」の漢字は「お玉さん」か「お珠さん」だろう。実際に高宮町には昭和の終わりくらいまで飛んできたようである。
「春先、黄砂が降るような西風の強い日、どこからともなくフワフワと白い毛玉が飛んできた」「綿毛みたいなものの先が金色をしている」「縁起がいいと瓶に入れて神棚に置いていた」とリアルに思い出を語る人が今もいる。
八咫烏(やたがらす)は古事記・日本書紀の「神武東征」の物語に登場し、太陽の化身で3本の足がある。現代では世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産、熊野三山に共通する「導きの神鳥」として信仰されている。
淡海にも「先食烏」という名を持つ特別な烏がいる。多賀大社の神使である。
『多賀大社由緒畧記』には「本殿の脇に据えられた先食台と呼ばれる木の台に神饌(しんせん)の米をお供えする。すると、森からこの烏が飛んできて、神饌に穢れがないとこれを啄(つい)ばむ。古くは、もし烏が啄ばまない場合は、改めて神饌を造り直したという」と記されている。先食行事といい、毎朝行われている。
神饌を烏に食べさせる神事は、「御烏喰神事(おとぐいしんじ)」と呼ばれ、世界遺産の厳島神社では「御烏喰式(おとぐいしき)」、熱田神宮の摂社である御田神社(みたじんじゃ)では「烏喰の儀(おとぐいのぎ)」が毎年行われている。
日本の伝統的な長さの単位「一丈」は約3メートル。多賀町から永源寺にかけて出没する身の丈6メートル余りの僧侶の姿をした妖怪である。
犬上川最上流の集落多賀町の萱原(かやはら)では、「二丈坊」を「ニジョボン」と呼ぶ。「ガワソ」がニジョボンに化けると伝わっている。ガワソ(カワソ)は河童の別称だが、萱原では川獺(かわうそ)のことをいう。川原から聞こえる奇妙な音・空からぱらぱら降ってくる砂・つむじ風・突然の荒天など、不思議な現象や暮らしに厄(わざわい)をもたらす現象は全て、ニジョボンが引き起こしたとされる。子どもが悪さをすると「そんなことをしていると、ニジョボンが来よるほん」と叱った時代があったという。
犬上川下流の多賀町敏満寺では狐が二丈坊に化け、妖怪「ぬりかべ」のように行く手を阻むという。狐が化けているのだから二丈坊の足元を何かで払えばいなくなると、対抗策も伝わっている。
西明寺(甲良町池寺)は承和元年(834)平安時代初期、仁明天皇の勅願により三修上人(慈勝上人)が開山したと伝わる古刹である。「滋賀新聞」(昭和26年2月14日付)に「仙人姿の天狗」のことが掲載されている。
「(前略)犬上郡東甲良村字池寺、名刹西明寺を去る四日訪れた大和高田市大日堂住職大田宗源師(三六)は三週間の予定で本堂に參ろう、毎朝四時から午前中讀経を續け祈願をこめているが数日前いつもの通り右腕をロウソクの燭台にして荒修行をしていると本堂のトビラが二三寸ひらいてスキ見する者があるので目を注ぐと仙人姿の『天狗』三体が見ているのでハツとびつくりしたがくだんの『天狗』は『邪魔はせんから修行を續けよ』と言葉をかけた。」
天狗は大抵山伏装束だが、仙人姿であるところが西明寺独特で興味深い。
狐は変化(へんげ)の天才である。大抵は美しい女性に化ける。人をだます狐もいれば、受けた恩返しもする。幻術で幻を見せることも、人の心を読むこともできる。神の使いにも怨霊にもなる。璞蔵主(ハクゾウス)は僧侶に化けた白い狐である。
甲良町正楽寺の古刹勝楽寺は、「婆娑羅」の典型として知られる佐々木道誉(1296~1373)の菩提寺である。勝楽寺城址に「狐塚」があり、璞蔵主の話が伝わっている。
勝楽寺に璞蔵主という住職がいた。その弟の金左衛門が狩りで動物を殺していることに心を痛めていた住職は、日々、弟に命の尊さを説いていたが、金左衛門はそれを聞き入れようとしなかった。ある日、住職が留守のときに一匹の白狐が璞蔵主に化けて、「殺生をすると罰が当たるぞ」と金左衛門を戒めた。しかし、正体を見破った金左衛門は、白狐を柱につるして殺してしまう。後にそのことを知った住職は弟を諭し、反省した金左衛門は、以来狩りをやめ、山中に塚をつくり白狐を長く弔ったという。
金剛輪寺に現れる妖怪。
昔、この寺の若い坊さんが、本坊から本堂まで長い石段を登って、朝事、夕座のおつとめをしていた。朝事の前に、本堂の灯明をつけに行くことは辛い修行であった。冬、種油を壺から油さしに移し、雪の積もった石段を登るのは苦行であったに違いない。若い坊さんは、毎日毎日定められたように油を本堂へ運んでいるだけで、面白くない。ある日、本堂のたいせつな灯明油をくすねて商人に売り、できたわずかな金を持ち町へ遊びに行った。その後、ふとしたことから原因不明の病気になり、もだえ苦しみながら亡くなった。
そうしたことがあってから、毎夜毎夜、金剛輪寺の総門あたりで「油かえそう。油かえそう。わずかのことに、わずかのことに……」という悲痛な声が聞こえ、観音堂までの石段をひょろひょろ歩いて行く黒い影法師が現れるようになった。その手には油を持っているのだという。
「山姥」は山中の妖婆である。人を襲い、子どもを好んで食べる。背は高く、眼光鋭く、長い髪、透き通るほどの白い肌、口は耳まで裂けているという。
愛知郡愛荘町、宇曽川ダムの上流に「山比古湧水」がある。山比古地蔵尊にあやかって名づけられた名水である。
昔、たいへん信心深い老夫婦がこの湧水を山比古地蔵にお供えしたところ、息子にとても気立てのよいお嫁さんを迎えることができた。また、その息子がこの湧水をお供えすると、喜んだお地蔵様は、「この付近に住み着いて、村に下りてきては子供をさらい村人を苦しめている山姥を退治してほしい」という若者の願いをかなえてくださった。村には平和が訪れ、若者はかわいい赤ちゃんを授かり幸せに暮らしたという。湧水近くの遊歩道には、いまも岩に山姥の足跡が残っている。
平将門は平安中期の武将で、下総北部(茨城県西部)を地盤とした最強の豪族だった。天慶3年(940)、将門は新皇を自称し京都の朝廷から独立した国家を作ろうと挙兵するが、藤原秀郷に討たれた(平将門の乱)。
秀郷が京に凱旋するため東山道(後の中山道)を進んでいると目を開いた将門の首が追いかけてきて、宇曽川の辺りで秀郷に勝負を挑んできた。秀郷は首だけになった将門に和歌の勝負を提案すると、将門の首はこれに答えられず力尽きた。以来、将門の首が歌に詰まったことから、この橋を「歌詰橋」と呼ぶようになった。
そして、秀郷は近くに将門の首を葬った。将門塚(山塚古墳)と呼ばれている。
その後、首は宇曽川の氾濫に乗じて塚を抜け出し川に飛び込んだが、力尽きたところを里人が拾い平流山に葬ったといわれている。彦根の荒神山辺りには平流(ヘイル・ヘル)という地名がある。「平」が「流」れ着いたところである。荒神山が平流山だったのかもしれない。
昔、犬上川上流の大瀧神社(多賀町富之尾)は「滝の宮」として知られ、10メートルほどの滝があった。「大蛇の淵」は、稲依別王命(イナヨリワケノミコト)の愛犬小白丸(小石丸)が大蛇と戦ったところだ。
狩に出て昼寝をしていた命の頭上に、大蛇の気配を察知した小白丸は主人を守ろうと吠えたが、命は狂ったように吠え続ける犬の首を太刀ではねてしまった。犬の首はそのまま大蛇の喉に食らいつき、大蛇は事切れた。稲依別王命は忠犬の首をはねたことを悔やみ、祠(犬上明神)を建て、胴を埋めた場所には松を植えたという。これが犬胴松である。
小白丸の首はどうなったのか……。犬上川を流れ、豊郷に流れ着いたという。犬上郡豊郷町八目に、かつて「犬頭明神」と呼ばれた「犬上神社」があり、大瀧神社と同じ伝承を語り継いでいる。そしてこの神社は稲依別王命の屋敷(犬上の君遺跡公園)があったところに建っている。
本殿には、首と胴が分かれていることを不憫に思う人がいたのだろう、小白丸と思われる石像が奉納されている。