佐和山の麓、近江鉄道本線が走るトンネルを彦根側に出た西側一帯に湖東焼の窯跡が残っています。
湖東焼は江戸時代後期、文政12年(1829年)、彦根の商人絹屋半兵衛が、当時先端技術の華であった磁器の焼成導入を考えて、伊万里の職人を招き、最初は芹川南岸の晒山で窯が築かれましたが問題もあり、場所を佐和山山麓の餅木谷に移し、築いた窯で成功させたのがそもそもの始まりとされています。
近くの物生山から掘り出した石や敏満寺の粘土などが焼き物に適していることを半兵衛自身が発見しました。こうして他に類を見ない焼き物を作り出すことに成功しました。それは薄い青みがかった、湖東焼独特の味わいをもったものでした。
半兵衛たちが14年もの間、苦労して作り出した焼き物は、やっと藩に認められて、藩の直営になりました。その後、多くの名工が数々の名器を作り出して、全国にその名が知れ渡りました。しかし、江戸時代の終わりころ、藩の事情から急速に衰えてしまいました。そのため、数々の名器は「幻の湖東焼」と言われるようになり、現在も貴重品として大切に保存されています。
石碑 湖東焼窯跡
湖東焼の確立
国産奨励は諸藩の風潮で、彦根藩は特に強力な援助をし、10年にして彦根焼・湖東焼の名は確立され、天保13年(1842年)、井伊直亮(いいなおあき)のとき、召し上げて藩直営に移行しました。
藩窯は第12代・直亮の代8年、第13代・直弼(なおすけ)の代10年が最盛期、第14代・直憲(なおのり)の代2年は終末期で、通算20年の短い歴史に過ぎませんでしたが、焼成技術は景徳鎮・伊万里に劣らない世界最高の水準で、絵付けにいたっては、緻密豪華高尚湖東焼独特の味を完成させたとされています。徹底的に優品をめざし、白く焼き締まった磁器を中心に、金欄手、赤絵金彩、色絵、染付、青磁などの細やかで美しい逸品が数多く作られました。
磁器の原料石は、天草産に少量の彦根物生山の石を混ぜ、呉須染付の品はすべて藩の茶碗山の窯で焼き、赤絵金欄手の類は素地すべて藩の窯で焼いたのち、藩の絵付け窯で絵付けを行いました。また、城下町や近在の民家に据えられた錦窯と呼ぶ小さい絵付け窯で焼かれたものは民家赤絵湖東焼と呼ばれています。
湖東焼の衰退
このように、盛大におもむき地場産業として定着しかけた矢先、桜田門外の変が起こり世情不安となり、百人近い茶碗山の職人はおびえて四散、彦根生まれの四人を残すのみで創業不能となって藩窯は廃止された。その後、窯場の設備や材料など一切の払い下げを受けた山口喜平らにより民窯となり、明治28年まで存続しましたが、かつての湖東焼の面影を見ることは出来ませんでした。
藩窯時代は約20年、前後の民窯時代を含めても約60年ほどで途絶えたので「幻」と言われることもあります。
現在、彦根市内では、新しく湖東焼を再興する動きが始まっています。