石碑 中村長平屋敷跡

井伊直弼のブレーン、長野主膳の門人に中村長平という町人がいました。
油屋という屋号の郷宿を業としていました。安政元年(1854年)、長平19才の時、長野主膳義言の歌学及び国学の家塾『桃廼舎』に入門します。
義言は、藩主井伊直弼によって、藩校である弘道館の国学方として、20人扶持で召し抱えられるのですが、その後直弼が大老職に就任すると、義言はますます幕府の朝廷工作や、京に於ける風聞探索の仕事に引張り出されます。義言が命により京にある時は、長平もしばしば師にしたがって、下働きをしました。

主君直弼の死後、彦根藩に於ける文久2年(1862年)の政変によって、義言は死刑となりますが、長平は、義言や連座して亡くなった人々の遺族に対し、自らの危険をかえりみず、あたたかい援助を続けました。義言の門人277人もいました。長平自ら『生涯かけて師を思う情、片時も離れることなし』と述べているように、師の汚名をそそぐことに生涯をかけたとされています。
ちなみに、城町郵便局の向かい側にある義言地蔵尊は、文久2年(1862年)8月27日に長野主膳がこの地で斬首された後、中村長平によって建立されたものです。

石碑 中村長平屋敷跡

所在地滋賀県彦根市城町2丁目