石碑 大坂の陣供養碑

大坂の陣、冬の陣は慶長19年(1614年)、夏の陣は慶長20年(1615年)。
彦根の大洞弁財天近く、JRの線路沿いに大坂の陣で亡くなった人々の供養碑があります。大坂の陣から84年後、元禄12年(1699年)の建立とされ、こんもりと土が盛られ、木々に覆われています。

実はこの供養碑は、「一本松」と呼ばれた塚の上に建っており、話は関ヶ原合戦まで遡ります。
慶長5年9月15日(1600年10月21日)、関ヶ原の合戦に勝利した東軍は、その日の夜には佐和山城に向けて行動を開始している。先鋒には井伊直政・田中吉政・脇坂安治・朽木元綱、小早川秀秋。翌日には徳川家康も本隊と共に正法寺山に陣をはりました。籠城の兵2,800人、佐和山を包囲する兵はおよそ15,000人に達したと言われています。
9月17日早朝、大手から小早川秀秋・脇坂秋月・小川土佐守・朽木土佐守らが、水の手から田中吉政、内湖側からも家康家臣らが攻撃を仕掛けた。佐和山城には、三成の父正継、兄正澄をはじめ留守をあずかる人々が詰めてはいましたが、多くが老兵・若兵そして子女であったといいます。この時の老兵福嶋次郎作の話が、今に伝わります。
次郎作は弓の名手で、寄せ来る包囲軍に向けて矢を放ち、自分の矢種が尽きると山田嘉十郎の名が印刻された矢を用いました。山田嘉十郎は三成の二家老だったが、関ヶ原の不首尾を聞き知りこの時既に舟で逃げていました。包囲軍側は、矢の印刻により勘違いして嘉十郎のなせる技として大いに称賛したといいます。福嶋次郎作は、防戦の甲斐なく敗色が濃くなると、塩硝蔵に火を放ち、大洞の経堂あたりで自害したと伝わっています。
佐和山落城後、福嶋次郎作を弔うために百姓らが塚を築き、その上に松を植え、塚は「一本松」と呼ばれるようになりました。
「一本松」に大坂の陣供養碑が建てられたのは彦根藩主井伊直興の時代です。
直興は、日光東照宮修造の惣奉行を務め、槻御殿(玄宮楽々園)造営や松原港、長曽根港も改修した当時の建設事業第一人者でした。そして、直興自らが院主となり、彦根城の鬼門除けと領内の安泰を願うと共に、近江代々の古城主の霊を弔うために建立したのが大洞弁財天です。弁財天堂横の阿弥陀堂には、阿弥陀如来、大日如来、釈迦如来の三尊が祭られ、彦根藩領内の古城主237人の法名・俗名の名札と、大坂の陣で討ち死にした家臣の法名・俗名の名札が奉納されています。

石碑 大坂の陣供養碑

所在地滋賀県彦根市古沢町