新海は「新開」とも書き、新しい開発地であることを示しています。
この新海の地を開発したのは、新開氏と伝えます。新開氏は愛智氏の長男の家仲を祖とする一族で、家仲以降代々が六角氏の命により当地の開発を努めました。16世紀中ごろには山崎山城主の山崎賢家の弟が新開氏を継いで新開源兵衛尉家郷と名乗りました。
新海城跡
また新海は、彦根市域に属している田附村・本庄村、東近江市域の新村・宮西村・乙女浜村・福堂村・小川村・川南村・阿弥陀堂村の10村で栗見庄を構成していました。栗見庄は比叡山が延暦寺が所有し、延暦寺の経済的基盤を担う特別な荘園でした。延暦寺からは代官として山法師が派遣されて居住し、年貢米の徴収などに携わっていました。
こうして新海には、六角氏配下の新開氏と延暦寺から派遣された山法師の両者が居住していたわけですが、両者は反目を強め、永禄元年(1558年)正月、ついに山法師である岡田千甚坊が新開氏の館を襲撃します。当主・新開源兵衛尉家郷とその子・源内は殺害され、千甚坊はその館に入りました。このことを知った六角氏は、直ちに千甚坊の軍勢を攻め、激戦の末討ち取りました。この戦を「新海崩れ」と称しています。
新海の集落は「大浦屋敷」・「北浦屋敷」・「今屋敷」という3つの小字名をもつ屋敷地から成り立っています。いずれの屋敷も周囲には水路が発達していますが、中でも大浦屋敷はたまご型の集落を取り囲むように水路が巡って環濠を形成しています。地元ではこれを「お城濠」と呼んでおり、この屋敷一帯が新開氏の平地城館であり、「新海崩れ」の舞台でもあったと想定されます。