田付城は、田附町に隣接する南三ツ谷町字増見の地一帯に存在したと伝えられています。
北の豊田神社から南の墓地まに向かって南北に伸びる道沿いであり、現在は整然とした水田に変わっていますが、明治時代の初めに描かれた「三ツ谷村地券取調総絵図」を見ると、周囲の水田より1段高い畑地として描かれています。畑地の外周は水路(堀)が巡っていたようです。この地が田付氏の平地城館であったと想定されます。今は遺構はありません。
田付城跡
この田付城を築いたとされるのが田付小孫太宗重です。彼の先祖は淳和天皇の子、守房親王と伝えられており、守房親王が田附町に所在する八幡神社(若宮八幡宮)の神官として当地に赴いたことに由来するといいます。
宗重以降、代々が田付城主として近江源氏佐々木一族に従ったようですが、宗重より9代の重房の時、文亀3年(1503年)の春に軍律を犯したため、佐々木一族の六角氏綱によって、城と領地を没収され、蟄居を命ぜられます。
こうして主の居なくなった田付城ですが、翌永正元年(1504年)、六角氏綱は配下の伊庭景定の子、景春に田付氏を継がせ、田付城主に任じました。以後、景澄、景輔と六角氏に仕えますが、景輔の晩年の天正元年(1573年)、織田信長の攻撃を受けて田付城は落城。景輔は落城とともにこの地を去って伊勢に逃れたようですが、彼は六角氏の下で砲術を得意とし、一派をなして田付流を称していました。その秘術は子の景規に受け継がれ、望まれて福島正則に仕え、3千石を領して安芸国広島に移り住みました。福島氏の断絶後は、江戸幕府に召され、幕府の砲術指南役として国内にその名を知られるようになりました。子孫もまた代々が砲術指南役を勤め幕末にいたります。
田付城跡
| 所在地 | 滋賀県彦根市南三ツ谷町 |
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