石碑 肥田城水攻め堤跡

肥田城遺跡は愛知郡を流れる宇曽川の自然堤防上にある城館遺跡です。大永年間(1521~1528)の築城が伝えられています。地表面に現存する遺構はほとんどありませんが、田畑等の土地の地割り(土地の形)からかつての姿を検討することができます。このような土地に残る痕跡から推定できる肥田城は、宇曽川のほとりに築かれた土塁・堀で囲まれた城館で、おそらく、周辺に築かれた城館遺跡同様の姿であった考えられます。

「肥田城水攻め」と後の世に伝えられる城攻めを発案した人物が誰であるのかは記録に残っていませんが、六角義賢はその策を採用し実行させたのが現在の定説です。
永禄2年4月3日、観音寺城を出た六角軍は肥田城の近くに布陣し肥田城を囲む形で幅12間(約23メートル)、長さ58町(約6.3キロメートル)の堤防を築き、宇曽川と愛知川(現在よりも北を流れていた)の水を引き込んで水攻めとした。彦根藩士源義陳が寛政4年(1792年)に編纂した『近江小間攫』には「本朝(日本)水攻ノ最初ハ此時ナリ」と記している。実際には76年前に河内国(大阪府東部)若江城で畠山義就が行った若江城水攻めが日本最初の水攻めであるが、しっかりとした堤防を築いた水攻めとしては肥田城が最初であり、羽柴秀吉の備中高松城水攻めより23年前の出来事だったのだ。
水攻めを行ったのは代々近江守護として室町幕府から任じられた六角氏です。肥田城の城主、高野瀬氏が六角氏を見限り、浅井氏の勢力下へ鞍替えしたことが戦いの発端となりました。永禄2年(1559年)、河川の流水を堰き止め、土塁内に水を引き込んで行われた肥田城の封鎖は、堤が増水に耐えられず決壊して失敗しました。翌永禄3年(1560年)に再度六角氏は高野瀬氏を攻めるため肥田城を包囲しますが、今度は浅井賢政(後の長政)が高野瀬氏救援のため出陣し、肥田城西方の野良田付近で両者は戦うことになりました。

石碑 肥田城水攻め堤跡

所在地滋賀県彦根市肥田町