石碑 日下部鳴鶴屋敷跡

日下部鳴鶴(1838~1922)は、彦根藩士出身で、日本近代の代表的な書家です。
滋賀大学経済学部キャンパス内に屋敷跡の石碑があります。
鳴鶴は天保9年(1938)8月18日に彦根藩士の田中惣右衛門の次男として江戸藩邸で生まれ、安政6年、22歳で同じ彦根藩士の日下部三郎右衛門の養子になってあとを継ぎ、井伊直弼に仕えました。
明治2年(1869)東京へ出て新政府の書記官になり、三条実美太政大臣や大久保利通らの信任を受けました。東京では嵯峨天皇ら三筆、小野道風ら三蹟を学び、古写経を研究して、のびのびとしてきれいな草書の書風を身につけたといわれています。明治天皇が大久保利通邸に行幸されたとき、御前で書を記したこともあります。
明治12年(1879)、鳴鶴は役人をやめ、書道に生涯をかける道を選びました。
明治24年(1891)、54歳のとき、古書の研究のため、清国にわたりました。
明治43年(1910)、勅命によって大久保利通公神道碑を書きました。
鳴鶴は弟子に「書は心画なり」とつねに教え、大正11年(1922)、85歳で亡くなるまで、多くの足跡を残しています。

鳴鶴は、明治維新後、新政府の官僚となって大書記官まで進みましたが、厚い信任を受けていた大久保利通(1830~1878)が暗殺された後、官を退いて書の道一筋に生きていくことを決意しました。明治12年(1879年)、とこに鳴鶴が42歳のことです。
意外にも、鳴鶴には門下生時代というものがありませんでした。はじめは兄の影響もあって巻菱湖(1777~1843)の書風を学んでいましたが、のちに、京都で活躍していた貫名菘翁(海屋)(1778~1863)に私淑、そして、官を辞した翌年、その後の運命を決定する人物との劇的な出会いがありました。その人物とは、清国公使の随員として来日した楊守敬(1839~1915)です。
守敬は書をよくし、金石学者としても知られていました。鳴鶴は、巌谷一六(1834~1905)や松田雪柯(1819~1881)た志をともにするものと誘い合い、膨大な碑版法帖を持する守敬のもとに4年間通って金石岳学を本格的に学び、中国の漢魏六朝時代を中心とした書体を研究しました。加えて、廻腕執筆法という書法を教授されています。明治24年(1891年)には、54歳にして清国に遊学し、踰越、呉大徴、楊峴、呉昌碩などの学者文人と交わり、碑版法帖なども積極的に収集し、見聞を広げました。
深い学識に裏付けられた格調高い書は広く世に受け入れられ、鳴鶴は近代随一の大家と仰がれるまでとなり、彼の楷書体は日本の一般の書体の基礎となりました。門人も多く、比田井天来(1872~1939)、丹羽海鶴(1863~1931)ら、優れた書家を輩出しています。
鳴鶴の流派は鶴門と呼ばれ、その門下生は3,000人を数えたと言われています。また生涯で1,000基の石碑を書いたとも言われ、現在も全国に300基以上の碑が残されています。中でも大久保公神道碑は鳴鶴の最高傑作といわれています。

石碑 日下部鳴鶴屋敷跡

所在地滋賀県彦根市馬場1丁目