石碑 森川許六屋敷跡

森川許六は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲。字は羽官。旧彦根藩の藩士で、森川与次右衛門の子として生まれました。絵師でもあった。通称は五助・金平で、五老井・菊阿仏などと号しました。
許六という名は六芸(俳楷・絵画・書・剣・槍・馬術)優れていたので、芭蕉が命名したと言われています。
市内には墓所や句碑などが点在し、また、龍潭寺には森川許六が描いた襖絵があります。書は各務支考の「弔許六」の文字から名筆であったことが知られています。剣道は正法流、槍は宝蔵院流、馬術は悪馬新当流の達人でした。さらに、能楽・彫刻・茶道もよくしました。とくに俳諧では、はじめ北村季吟から学び、のちに芭蕉の門に入って、才能を発揮しました。許六は芭蕉の晩年に門人となりましたが、二千人の門弟の中で十哲の一人に数えられるほどすぐれた俳人でした。
許六は俳人より俳論家としての功績が大きく、「風俗文選」「正風彦根体」などの多くの書物を残しました。許六と親交のあった李由とは共同で「韻窪」「宇陀法師」などを編集しました。”彦根ぶり”といわれる俳諧をきずきました。
許六は自分のことを「芭蕉二世」と言って自負していましたが、そんな一面に反発も多く、許六が正徳5年(1715)に亡くなった後、蕉風の俳句はしだいに衰えていきました。しかし、芭蕉の心は許六の書物によって、のちの人々に伝えられ、すぐれた俳人を生む力になりました。
許六が俳人仲間と風雅を楽しんだところは、原町に「五老井跡」として残り、そこに句碑が立っています。
市内を巡って、句碑などを探訪するのも面白いかもしれませんね。

石碑 森川許六屋敷跡

所在地滋賀県彦根市立花町