観光スポット

彦根市内の観光施設や観光スポットをご案内します。また、彦根周辺のおすすめスポットも。

いろは松

いろは松は中濠沿いの松並木で、江戸時代「松の下」と呼ばれていました。この場所は藩主の参勤、着城で必ず通る場所で、当時47本植えられていたことからいろは47文字にちなみ「いろは松」と呼ばれるようになりま

オオトックリイチゴ

オオトックリイチゴはバラ科キイチゴ属の一種で、彦根城以外には知られていない彦根城に固有の植物です。春に直立する茎を出し、茎の高さは 2~2.5メートル にも達します。6・7 月に側枝を伸ばすようになる

登録有形文化財 スミス記念堂

昭和6年、日本聖公会彦根聖愛教会の牧師で彦根高商の英語教師でもあったパーシー・アルメリン・スミス氏が両親を記念し、大工宮川庄助氏と協力して城町の堀端に建設しました。外観は寺社建築を模しながら、梁や扉に

七曲がりの仏壇街

中山道の高宮宿から彦根城へ向かう道を彦根道と言い、芹川の近くで幾度も道が屈曲しており、ここを七曲りと呼んでいます。現在は彦根の伝統産業の仏壇を作る店が軒を並べています。 伝統工芸品「彦根仏壇」は、木地

歌碑 万葉歌碑

旧中山道の芹川にかかる橋、大堀山の麓に歌碑があります。 大堀橋から、大堀山の麓を見ると、石碑が2つあります。 一つは「鳥籠山(とこのやま)(大堀山) 不知哉川(いさやがわ)(芹川)」と刻んだ石碑。 も

歌碑 万葉歌碑

JR彦根駅の東口を出て右側に少し歩くと歌碑があります。 歌碑には「淡海路(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉(いさや)川 日(け)のころごろは 恋(こ)ひつつもあらむ」とあります。 第37代の

歌碑 万葉歌碑

元号「令和」の出典となった万葉集。その万葉集は現存する日本最古の歌集で、収録されている約4,500首のうち、滋賀県を背景に詠まれた和歌は約108首あります。近江の風景が人々の心に深く刻まれていたことが

景観重要建造物 上野家住宅主屋

彦根の城下町は慶長9年(1604年)から始まった彦根城の築城に伴い建設されました。 上野家住宅の建つ旧本町一帯は、城下町建設の当初に着手されたと伝えられる町で、城下町のほぼ中心部に位置しています。当時

登録有形文化財 不破家住宅主屋

旧高宮宿で通りに西面する入母屋造妻入の二階建ての建築です。 平面は右手に幅広の土間を通し、左手に四室ずつ二列に並びます。良材を用いた譜請で座敷飾も上質です。塗り込みの外部に柱形などを表し、正面開口部に

句碑 与謝蕪村 句碑

「鮒ずしや 彦根の城に 雲かかる」 彦根城内の天秤櫓前の廊下橋の脇に与謝蕪村(1716年~1783年)の句碑があります。 鮒ずしは日本三大珍味の一つであり近江を代表する郷土料理です。

中山道 摺針峠

中山道は、鳥居本の宿場町から山道を登って江戸へ下っていきました。山道を曲がると急に視界が開け、この峠から眺める琵琶湖や湖東平野の眺めは最高だったといわれています。 摺針峠には、弘法大師にちなむ逸話が残

句碑 中山道 旧跡 床の山

旧中山道沿いの旭森公園のフェンスわきに石碑があります。 表には「旧中山道 旧跡 床の山」とありますが、向かって左側側面に句があります。 「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」 鳥籠山につきましては諸

中山道 松並木

彦根市には中山道が通り、江戸から数えて67次の63番目にあたる鳥居本宿と、次の高宮宿の2つの旧宿場町がありました。 高宮宿の南、葛籠町には松並木が残り、往時を偲べます。

中山道 高宮宿

中山道高宮宿は、中山道六十九次(東海道の草津、大津を含む)のうち江戸から六十四番目の宿場町になります。 天保14年(1843)の記録によれば、町の南北の長さ七町十六間(約800m)総戸数835軒、人口

中山道 鳥居本宿

中山道鳥居本宿は、中山道六十九次(東海道の草津、大津を含む)のうち江戸から数えて六十三番目の宿場町になります。徳川家康が慶長7年(1602)中山道を整備した時は一旦小野宿に宿継を命じています。その後彦

石碑 中山道・北国街道分岐道標

滋賀県は東日本と西日本の中間に位置しているため、古来より日本を代表する交通の要所でした。 近江から北陸へ向かう道は、琵琶湖の西岸を通る西近江路と東岸を通る東近江路があり、西近江路を北陸道と呼び、東近江

石碑 中山道・彦根道(大堀町)

彦根道は、高宮宿の北隣に位置する大堀村で中山道を西に折れ、七曲りを経て橋向町で朝鮮人街道に合流する道であり、彦根城外堀の高宮口御門に至ります。彦根から高宮へ抜ける道であることから、高宮道とも呼ばれまし

石碑 中山道・彦根道分岐道標

旧中山道鳥居本宿の南端近く、中山道が彦根道と交わる地点の南西隅に設けられている道標です。 幅・奥行きとも25.5cm、高さが124.5cmの角柱状で、上端はやや丸く納めています。石材は花崗岩。細長い4

石碑 中村不能斎屋敷跡

中村不能斎は彦根藩の儒学者で「彦根山由来記」の著者として有名です。

景観重要建造物 中村商家保存館

真宗信仰に生きた商人の家。当家は寛永年間(1628年〜47年)、彦根城が完成した頃とされる1622年とほぼ同じ時代に、現在の地に地割りを貰い本家から分かれて居を構え、酒醸を創業したのがその始まりです。

石碑 中村長平屋敷跡

井伊直弼のブレーン、長野主膳の門人に中村長平という町人がいました。 油屋という屋号の郷宿を業としていました。安政元年(1854年)、長平19才の時、長野主膳義言の歌学及び国学の家塾『桃廼舎』に入門しま

旧彦根藩足軽組屋敷 中藪組・瀧谷家住宅

彦根城下の足軽組屋敷は、城下町のもっとも外側に、城下を取り囲むように屋敷を連ねて彦根城と城下町を守備する役割を担っていました。彦根藩の足軽は、慶長期(〜1614年)に中藪組6組と善利組12組が設置され

石碑 久左の辻

銀座商店街の入口に石碑があります。 江戸時代に彦根藩の御用商人であった近藤久左衛門がこの地一帯を所有していたが、没落後当地に名称のみが残ったとされています。

二季咲桜

彦根城の内堀沿い、金亀児童公園内にあるこの桜は春(4月〜5月)と冬(11月〜1月)の2回開花する珍しい桜です。 昭和47年4月に水戸市より寄贈されました。

歌碑 井伊文子氏歌碑

「一身に責負ひまして、立ちましし、大老ありてこそ、開港はなりぬ」 井伊大老像前の歌碑は、明治100年にあたる1968年、彦根市と水戸市を親善都市として提携させた井伊直弼の曽孫で当時の彦根市長・井伊直

歌碑 井伊文子氏歌碑

「川波の 渦の底ひに 身を沈め 祈りは永久の 安らけきなむ」 昔、犬上川がよく決壊したために、人柱として庄屋の娘の「おまるさん」を生き埋めにしたという伝説「まるどの堤」があります。 彦根市甘呂町の集

石碑 井伊水軍水主町跡

松原村は 1937年(昭和12年)の市制施行に伴い彦根市に合併されるまでは、「犬上郡松原村」として独立した集落でした。 松原村には、1931年(昭和6年)当時、18の字があり、そのうち、水主町は井伊氏

井伊直弼大老像

金亀児童公園内に、大老井伊直弼公の銅像が建てられています。 井伊直弼は、11代藩主直中の14男として生まれました。 安政5年(1858年)4月、幕府の大老となった直弼は同年6月「日米修好通商条約」に調

歌碑 井伊直弼大老歌碑

「いろは松」のすぐ近くに井伊直弼の歌碑が建てられています。 安政7年(1860年)正月。直弼は正装姿の自画像を狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、井伊家菩提寺の清凉寺に納めたと伝えられていま

石碑 井伊直弼生誕地

開国の英傑・井伊直弼は1815年10月29日に父・直中の14男として楽々園で生まれました。 楽々園前に「井伊直弼生誕地」の石碑が立てられています。

石碑 井伊直憲公顕彰碑

井伊直憲は、大老・井伊直弼の嫡子です。萬延元年(1860年)、桜田門外の変で父・直弼が非業の死を遂げた後を受け、直憲は弱冠13歳で旧彦根藩最後の藩主となりました。 就任当初は従前どおり幕府譜代大名筆頭

井伊直政公像

井伊直政は戦国時代の武将・大名で上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主です。 徳川氏の家臣で江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎

市指定文化財 井伊神社

天保13年(1842)に彦根藩12代藩主井伊直亮が、井伊家の始祖井伊共保の750回忌にあたり、井伊谷(現静岡県)八幡宮から井伊大明神を分霊して神像を造り、龍潭寺の参道脇に祀ったのがはじめとされます。ま

石碑 伝馬町高札場跡

中央商店街の通りから少し入った、蓮華寺の角に、昔、高札場がありました。 高札場には、高さ4.2mの屋根組の下に、幕府から出された法令を記した駒形の大きな木札(高札)が掲げられていました。 伝馬町の馬持

市指定文化財 佐々木家住宅

佐々木家住宅は、芹川の南側、雨壺山の北側に位置しており、水と緑に恵まれた環境に建てられた住宅です。 もともと、日本生命の創設者で彦根市出身の弘世助三郎が別荘として建立したのが始まりです。 住宅は、彦根

佐和山城大手門跡

東山道(のちの中山道)側に開いていた佐和山城正面の大手口の跡です。 かつて、ここには大手門が築かれ、左右に土を盛って築いた土塁が伸びていました。大手門は彦根市内に現存する宗安寺の表門と伝えられており、

佐和山城跡

佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期、近江源氏・佐々木定綱の六男時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝えられています。その後、佐々木氏は湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。佐和山城は両勢力の境

登録有形文化財 俳遊館

旧彦根信用組合本店として大正12年(1923年)に建築されました。 旧白壁通町通りに面する大正時代の近代化遺産を代表する建造物です。木造2階建て、寄棟造、カラーベスト葺。 外観は箱型に単純化した建造物

句碑 冶天 句碑

荒神山の麓にある千手寺山門前に、旧彦根藩の俳人・森川許六の弟子である冶天の句碑があります。 冶天は、旧彦根藩の俳人で、芭蕉十哲の一人としても名高い森川許六のあとを継いで彦根蕉門道統三世となった森野冶天

石碑 切通口御門跡

彦根城の外堀には7つの口が開いていました。 切通口御門は、藩主の井伊家が参勤交代の際に通る特別な門だったといわれいます。石垣の上には櫓があったと考えられ、本丸表口の太鼓門櫓(国重要文化財)とほぼ同様の

登録有形文化財 加藤家住宅(旧布惣)主屋

中山道高宮宿の中心部に建つ元麻布商で、街道に西面して建っています。 木造2階建て。桁行が16.6m、梁間が12.4m、切妻造瓦葺。 前面を店舗、背面を田の字型の床上部とし、正面は海老虹梁状の腕木や二階

勝鳥神社

勝鳥神社は天稚彦命を主神とし、事代主命・大山咋命をおまつりしています。 天稚彦命が出雲国から東方へ征伐に出陣されたとき、事代主命らとともに三津に立ち寄られました。美濃の国での戦で亡くなられた天稚彦命の

石碑 博習学校跡

明治政府の学制頒布により、明治7年(1874年)9月、葛籠町、西葛籠町、出町の子どもたちの学び舎として、小玉氏家屋において開校されました。 明治19年11月に簡易科葛籠町小学校と改称。明治22年11月

市指定文化財 吉川家住宅

吉川家住宅は、現在の城町1丁目、江戸時代には城下町の中堀と外堀の間にあった下魚屋町の町筋北側に位置しています。 下魚屋町はその町名のとおり、城下町建設当初は魚を取り扱う商業者が集住する同業者町でした。

名水百選 十王村の水

西今町の十字路の角、家並が続く中に小さな池があり、中央には六角形の地蔵堂がまつられています。この池に湧き出る水は、すでに元禄年間に「湖東三名水の一つ」として知られていました(他は五個荘清水ヶ鼻の水、醒

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組

善利組足軽組屋敷、城下の南部、外濠(現在の昭和新道)と芹川とに挟まれた地区にあります。 彦根藩の足軽衆は、二十二俵三人扶持の禄高で、第四郭つまり町の一番外側に住居を置き、城下を守る役割を果たしていまし

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・北川家住宅

北川家住宅は、旧芹橋10丁目中ほど、表通りの東南側に位置しています。天保7年(1836年)に作成された「御城下惣絵図」では、間口が5間、奥行きが10間の敷地として描かれていますが、現在は、西隣の敷地を

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・吉居家住宅

彦根城下の足軽屋敷は、城下町を取り囲むように屋敷を連ねており、そのうち、最も規模の大きかったのが善利組です。幕末期には約700個戸の足軽屋敷がありましたが、現在はその1割以下にまで減少しています。 吉

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・旧磯島家住宅

善利組・旧磯島家住宅は、主屋が間口が4間半、奥行きが6間の切妻造り・桟瓦葺の中二階形式で、表に向かって下屋をかけます。出入口は、門をくぐって左に前庭を見ながら「どま」より「げんかん」に入る平入です。

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・服部家住宅

善利組・服部家住宅は、旧芹橋12丁目のほぼ中央、旧大辻通りと旧中辻通りの間に位置しています。 主屋は間口が4間、奥行きが5間半の切妻造・桟瓦葺の中2階形式で、通りに面して妻面を見せ、表に向かって下屋を

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・林家住宅

善利組・林家住宅は、通りに面して格子戸と板戸からなる古様の木戸門を構え、周囲は板塀で囲まれています。 門より1間入った位置にある主屋は、間口5間、奥行き4.5間の切妻造りの桟瓦葺です。外壁および軒裏は

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・椿居家住宅

椿居家住宅は、旧芹橋14丁目に位置しています。「御城下惣絵図」には間口4間半、奥行き10間の敷地として記されていますが、この後に南隣の屋敷を与えられ、間口10間となって現在にいたっています。

四番町スクエア

彦根の台所として賑わってきた市場街商店街が、新しく生まれ変わりました。ガス燈が映える街並みは古き良き大正ロマンを再現。心を落ち着ける効果のある環境音が流れ、ここでしか味わえない出会いのある町です。

石碑 回転橋跡

大正9年から昭和2年にかけて彦根港湾が改修整備されました。その港は、ここから東側約700間(1,300m)の城堀を利用した運河となり、松原橋は船の就航に合わせ、当時としても珍しい回転橋となりました。橋

市指定文化財 塔心礎(普光寺廃寺)

普光寺廃寺は、彦根市普光寺町の廣濱神社一帯に建立されていた白鳳寺院です。 白鳳寺院は7世紀後半に建てられた古代寺院で、市内には普光寺廃寺のほかに5か所でその痕跡が確認されています。周囲には「堂畑」「堂

多景島

琵琶湖に浮かぶ島で、彦根市街より沖合約6.5キロメートルに浮かぶ周囲600メートルの島です。 この島は観る方向によって様々な島影を見せることから「多景島」と呼ばれています。弥生時代から、島そのものがご

県指定文化財 多賀大社 一の鳥居

多賀大社から西方約4キロメートルの表参道に面して位置する石造明神鳥居は、同社の旧境界域を示しています。 多賀大社の創立は、奈良時代に完成した「古事記」や平安時代に編纂された「延喜式」にも見られます。

夢京橋キャッスルロード

彦根城のお堀にかかる京橋からすぐ。白壁と黒格子の町屋風に統一された街並みは江戸時代の城下町をイメージしています。和菓子屋、洋菓子屋、地元ならではの商品を扱うお店が軒を並べ、古き時代と新しい時代の薫り漂

石碑 大久保忠隣幽居跡

大久保忠隣は、松平家の重臣・大久保忠世の長男として三河(愛知県岡崎市)にて1553年に生まれました。 1563年から近習として仕えるようになり、1568年の遠江・堀川城攻めにて初陣を飾り、敵将の首をと

石碑 大坂の陣供養碑

大坂の陣、冬の陣は慶長19年(1614年)、夏の陣は慶長20年(1615年)。 彦根の大洞弁財天近く、JRの線路沿いに大坂の陣で亡くなった人々の供養碑があります。大坂の陣から84年後、元禄12年(16

旧彦根藩武家屋敷 大村家住宅

近年、彦根藩ゆかりの武家屋敷はほとんど残っていません。 とくに50石から300石の知行取(ちぎょうどり)の武家屋敷については大村家を除けば皆無に近い状況にあります。 当家は主屋とともに門や長屋も残って

石碑 大東義徹生誕地跡

近江鉄道の敷設に深く関与し、近江鉄道の初代社長に就任した大東義徹は、彦根藩士で足軽の小西貞徹の次男として生まれました。 幼名を寛蔵。戊辰戦争に従軍し武功を立てます。戸籍編成の際、姓を小西から大東に改め

石碑 天九郎俊長淬刃之水の碑

彦根市甘呂町に「天九郎俊長淬刃之水(てんくろうとしながさいとうのみず)」という石碑があります。「淬」の漢字は「淬(にら)ぐ」とも読み「赤熱した鉄を水に入れて鍛える、焼きを入れる」という意味です。井戸に

景観重要建造物 奥野家住宅

旧魚屋町の東端に位置し、魚屋町通りを代表する最大級の町屋の建造物です。 江戸時代は郷宿を、明治時代から昭和30年ごろにかけて醤油の製造販売業を営んでいました。安政2年(1855年)の「普請見舞帳」から

妙源寺赤門

妙源寺赤門は石田三成公の佐和山城法華丸の山門を移築したと伝えられています。

宇尾城跡

宇尾町はかつて「大宇」とも呼ばれ、河瀬一族である大宇大和守高秀と秀則の2代が居城したところです。高秀は、一時期、隣村の甘呂に居住していたようですが、後に当地に城館を移して、大宇と名乗りを改めたといいま

登録有形文化財 宇水理髪館

宇水理髪館は河原3丁目の中央に位置し、通り北側にあります。 この建物は、切妻造・桟瓦葺・平入の構造ですが、表側は両端の柱がアーチを支えているような、洋風のモダンな外観となっています。また、アーチのキー

宗安寺赤門

宗安寺赤門は石田三成公の佐和山城大手門を移築したと伝えられている。

ヴォーリズ建築 寺村家住宅主屋

鳥居本本宿の本陣を代々務めた寺村家は、観音寺城六角氏の配下にありました。六角氏滅亡後、小野宿の本陣役を務めました。佐和山城落城後、小野宿は廃止され、慶長8年(1603年)鳥居本に宿場が移ると、鳥居本宿

石碑 小野小町塚

小野小町の父親とされる小野小町塚小野美実(好美)が都から出羽国(現在の秋田県、山形県)へ赴任する途中に小野宿(滋賀県彦根市)で宿泊した際、宿所にいた赤ん坊があまりにも可愛かったため、養女として迎えたと

句碑 尚白 句碑

「みちばたに 多賀の鳥居の 寒さかな」 尚白は江戸前期の俳人。大津の医者で松尾芭蕉の高弟です。 姓は江左。字(あざな)は三益。近江大津の人で医を業としました。はじめ貞門・談林の俳諧を学びましたが、貞

市指定文化財 山崎山城跡

山崎山城跡が築かれた山崎山は、琵琶湖岸近くにそびえる荒神山の南東にある小さな独立丘です。 山崎山城跡は、この小丘の山頂の東半分に築かれています。平地と比高は約50メートル。眼下には、織田信長が岐阜から

石碑 岡本黄石屋敷跡

彦根西中学校の近くに家老岡本黄石屋敷跡の碑が建っています。 岡本黄石は詩文に秀で、桜田門外の変で井伊直弼が倒れた後、長野主膳と宇津木六之丞を斬刑に処して藩政を主導し、藩を勤王に転じさせ、幼少の藩主・直

景観重要建造物 岩根家住宅

鳥居本町は、彦根市の北部に位置し、江戸時代には鳥居本宿として中山道の宿場町として栄えました。天保14年(1843年)の時点で家数は293軒、人口は1448人で35軒の旅籠があったとされています。南では

石碑 巡礼街道

巡礼街道は彦根だけではなく大津市の寺辺から岩間山へ行く道から千町から滋賀大学教育学部の裏門の前を通って寺辺町に抜け石山寺門前に出る道、近江八幡市の長命寺、 安土の観音正寺への道程等、現在の県道大津能登

平田川沿いの桜

彦根城周辺の桜は有名ですが、こちらもとてもきれいです。 彦根城周辺の桜の品種は「ソメイヨシノ」がほとんどで、4月上旬に見ごろとなりますが、平田川沿いの桜の品種は「八重桜」が中心で、4月中旬頃に見ごろを

彦根八景

彦根市は市民に募集し「彦根八景」を平成7年5月1日に選定しました。市民が愛し、親しんでいる景観、21世紀に向けて後世に残しておきたい景観、観光客の皆さんにおすすめする観光地という基準で決められたもので

レトロな建築 彦根地方気象台

明治26年彦根に設置された県立彦根測候所は、昭和7年鉄筋コンクリート2階建て・塔屋4階建ての現在の建物に改築され、同15年国立となり、32年に地方気象台に昇格しました。1階から塔屋まで螺旋状に上る階段

国宝 彦根城

姫路城、松本城、犬山城、松江城とともに国宝に指定されている彦根城。 天守をはじめ、重要文化財の各櫓、下屋敷の庭園である玄宮園、内堀・中堀などが当時の姿を留めています。全国的に見てもきわめて保存状態のよ

彦根城お濠のオニバス

オニバスは、ため池などに自生し鋭いトゲをもつ水草で、彦根城築城当時は、関が原の合戦後の不穏な世相であったので、内・外堀に松原内湖より、防塞用として移植したもので、いざ戦いのとき、堀を渡って攻め寄せる敵

彦根城京橋口跡

彦根城は、中堀に面して4つの城門が開いていました。その1つが京橋口門です。 京橋口門は、第2の郭の重臣屋敷と第3郭の本町筋の間にあり、内堀の大手門にも通じる要所に位置しています。 門の内側に設けられた

彦根城佐和口多門櫓(開国記念館)

「開国記念館」は、昭和35年(1960年)に井伊直弼の没後100年を記念する事業として、彦根市民の浄財によって、彦根城の佐和口多聞櫓を再現したものです。 「いろは松」に沿った登城道の正面に佐和口があり

彦根城博物館

彦根城博物館は、江戸時代の彦根藩の政庁であった表御殿を復元したもので、井伊家に伝わる甲冑・刀剣、能道具・茶道具や調度のほか、古文書等を展示しています。また藩主が日常生活をいとなんだ「奥向き」は、御座の

彦根城外堀跡

目の前に広がる凹地は、江戸時代の外堀跡です。 かつては、現在の車道を含んだ堀幅があり、満々と水を湛えていました。江戸時代には、この外堀はさらに城下町の北東までまっすぐに伸びて御船入で松原内湖につながり

彦根城梅林

彦根城内にある、約400本の紅梅や白梅が咲き誇る梅林は、江戸時代には米蔵があった場所です。 1950年、彦根城が新日本観光地百選に選ばれたのを記念して、この梅は植えられました。 例年は、3月下旬頃に見

彦根城舟町口跡

彦根城は、中堀に面して4つの城門が開いていました。その1つが舟町口門です。 舟町口門は、東の佐和口、南の京橋口、北の長橋口とともに、彦根城の4つの門の1つです。 舟町口から城内に入り、北側に進むと、内

彦根城長橋口跡

彦根城は、中堀に面して4つの城門が開いていました。その1つが長橋口門です。 彦根城内の山崎曲輪の手前に山崎御門があり、その外側にあたります。 東の佐和口、南の京橋口、西の舟町口とともに、彦根城の4つの

彦根市子どもセンター

次世代育成支援の拠点として、子育て支援と青少年健全育成のために、乳幼児から18歳までの子どもたちの健やかな成長を支援する施設です。

彦根市庄堺公園

芝生広場、バラ園、花しょうぶ園などがあります。バラは、24種類 約1,200本が植えられ、毎年5月下旬頃より見頃を迎えます。花しょうぶは、28種類 約3,000本が植えられ、6月中旬頃より見頃を迎えま

彦根市荒神山公園

彦根市荒神山公園は、荒神山の麓にある自然に囲まれた緑あふれる公園です。 園内には、遊具広場や競技施設など、遊べる施設が盛りだくさん! 市街地の喧噪から離れた荒神山公園で、のんびりとした一日を過ごしませ

彦根市荒神山自然の家

彦根市荒神山自然の家は、美しい緑、清らかな光、澄んだ空気、自然の魅力が溢れる荒神山で、団体での宿泊や体験活動を通じて、心身共に健全な成長をはかることを目的とした施設です。

彦根市金亀公園

彦根市金亀公園は、国宝・彦根城や名勝・玄宮園の直ぐ近くに立地し、歴史を感じることができる公園です。 園内には、大型遊具や競技施設などもあり、休日は多くの人で賑わいます。

石碑 彦根盲訓院跡

滋賀県立盲学校は現在、 彦根市西今町にありますが、彦根での視覚障害者教育は、明治41年(1908年)、山本清一郎が彦根町に「訓盲院」を設けたことに始まります。 山本清一郎は、明治13年(1880年)、

彦根神社

「彦根」の地名は、むかし天照大神の御子に天津彦根命(あまつひこねのみこと) 、活津彦根命(いきつひこねのみこと)の二神がおられ、このうち活津彦根命が活津彦根明神として彦根山に祭られたことに由来している

市指定文化財 彦留神社 石造宝塔

彦留神社については、延歴年間(782年~806年)の創祀で、近江守護佐々木京極氏の崇敬が厚く、近郷の在地領主も武人として崇めたと伝わっており、江戸時代には亥大明神・彦留亥神と称し、明治以降に彦留神社と

県指定文化財 彦留神社本殿

彦留神社本殿は、滋賀県に多く見られる三間社流造りと呼ばれる形式の本殿で、棟札より明和3年(1766年)に建立されたことがわかります。

石碑 恒河寺跡(竹ヶ鼻遺跡)

竹ヶ鼻遺跡は、彦根市竹ヶ鼻農住組合の土地区画整理事業に伴い、平成8年に彦根市教育委員会が発掘調査を行いました。

登録有形文化財 成宮家住宅主屋

中山道鳥居本宿に西面して建つ町屋で、木造平屋一部二階建てで上部を漆喰塗り込みとして虫籠窓を穿ちます。内部は南寄りを通土間とし、床上部は手前よりイマなどを並べる。正面の出格子を駒寄せで囲い、土間入口にト

石碑 扇塚

芹川のすぐ近く、旭森公園の隣に神社があり、扇塚の石碑が残されています。 能楽喜多流(北流)は、江戸時代に彦根藩の手厚い保護を受け、この地で発展しました。9代目家元、健志斎古能(号湖遊)は隠居したのち、

新海城跡

新海は「新開」とも書き、新しい開発地であることを示しています。 この新海の地を開発したのは、新開氏と伝えます。新開氏は愛智氏の長男の家仲を祖とする一族で、家仲以降代々が六角氏の命により当地の開発を努め

新海浜水泳場

彦根市南部の東近江市との境、愛知川(えちがわ)の河口右岸にある水泳場です。白い砂浜と松並木が続き、景観にも恵まれています。遠浅で水質も良いため、ファミリー向けの水泳場として夏は多くの家族連れでにぎわい

石碑 日下部鳴鶴屋敷跡

日下部鳴鶴(1838~1922)は、彦根藩士出身で、日本近代の代表的な書家です。 滋賀大学経済学部キャンパス内に屋敷跡の石碑があります。

ヴォーリズ建築 日夏里館

旧日夏村役場と産業組合合同庁舎として、昭和10年(1935年)に建設された建物で、昭和25年に日夏村が市に編入合併された後、平成13年までは建物の一角にJA東びわこ日夏支店が入っていました。閉鎖以降は

登録有形文化財 旧佐藤家住宅主屋

芹川沿いに所在する二階建て町屋。一階正面に鉄格子の出窓を設け、出桁造りの二階は塗り込めて瓦屋根の袖うだつを帳出し、重厚な正面構えを見せます。内部は上下階の全面に洋室を配する他は座敷等となっています。伝

登録有形文化財 旧川原町郵便局舎(逞信舎)

高崎家住宅の建築年代は江戸後期と考えられます。 この建物は、江戸時代には表具屋を営んでおられたことから、江戸後期の文書も伝えられ、高崎家文書として彦根城博物館に保管されています。 昭和9年(1934)

景観重要建造物 旧広田家住宅

江戸時代には、この付近は「下魚屋町」といい、町名が示すとおり魚屋が立ち並んでいました。この旧広田家は「納屋七」という屋号でよばれ、魚問屋を営んでいました。 主屋の規模は桁行・梁間とも15.5m。桁行側

ヴォーリズ建築 旧彦根高等商業学校外国人教師住宅

滋賀大学の近くの彦根城の内堀と中堀に挟まれたところにヴォーリズ建築があります。 元々は、旧彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)の外国人教師の住宅として、ヴォーリズの設計で大正13年(1924年)に

登録有形文化財 旧志賀谷住宅主屋(本町宿)

旧職人町に位置する町屋です。 木造造二階建て、切妻造浅瓦葺平入で、正面二階には袖壁が設けられています。当初は通り土間に床上部二列六室であったと考えられ、小屋は中心部を和小屋として、その前方後方に登梁を

レトロな建築 旧本町郵便局舎

本町郵便局は明治14年に開局した、彦根市で最初の郵便局です。 現在の局舎の北隣に大正期に建てられた2代目の建物が残っています。外観は大正期に流行したセッションの造形が巧みに用いられており、タイル張りの

市指定文化財 旧池田屋敷長屋門

旧池田屋敷長屋門は、彦根城の中掘に近い第三郭に建っています。かつて、池田屋敷のあった尾末町一帯には、中級武家屋敷が広がっていました。当建造物は彦根藩中級武家屋敷の典型をなす貴重な長屋門として、昭和48

登録有形文化財 旧石橋家住宅中主屋

東主屋と西主屋の間に棟をそろえて建つ、木造平屋一部二階建て、切妻造浅瓦葺の風格ある構えを持つ町屋です。二階を漆喰塗り込みとし、袖うだつをあげています。西寄りに幅広の土間を通し、背後に広い台所が設けられ

登録有形文化財 旧石橋家住宅東主屋

通りに南面し、前面に二階建ての表屋を構え、玄関と中庭を介して住居部が建てられています。表屋は前面に出格子をたてて東端を土間とし、住居部は東寄りに土間を通し、居室は整型四間取で後方に風呂等が張り出してい

登録有形文化財 旧石橋家住宅西主屋

中主屋の西側に接続する建ちの低い外観の二階建てで、軒裏まで中塗りで塗り込め、中央に虫籠窓を穿ちます。屋根は切妻造浅瓦葺で、西端に袖うだつが設けられています。内部は中央に通土間をのばし、左右に居室が一列

登録有形文化財 旧秋口家洋館

秋口家住宅洋館の屋根裏には棟札が残されており、大正5年(1916)5月10日、巧匠渡辺領助、施主を秋口久次郎として上棟されたことがわかります。施主は神戸の異人館の建物を理想としてこの洋館を建てられたと

旧脇屋敷長屋門

二の丸駐車場と彦根東高校の間に、家老脇家(2000石)のなまこ壁長屋門の一部が残されています。 桁行8.5間、梁間3間(北端部は2.5間)、南妻面が入母屋造り、北妻面が切妻造りで、外壁の西面はなまこ壁

市指定文化財 旧西郷屋敷長屋門

旧西郷屋敷長屋門は、彦根城下では現存する長屋門中最大のもので、特に正面の外観はほとんど旧形を保ち、旧武家屋敷の面影を残す貴重な遺構で、市の指定文化財です。 西郷家は遠州(現・静岡県)の出身で「34家」

市指定文化財 旧鈴木屋敷長屋門

旧鈴木屋敷長屋門は、彦根城の中堀に面した第三郭に建っています。 かつて当地一帯は300石以上の中級武家屋敷が広がっていました。 天保7年(1836)に城下町を描いた『御城下惣絵図』によると、当地には鈴

旧魚屋町の街並み

彦根市には、彦根三十五万石(まんごく)の往時を偲ばせる古い町並みが、比較的よく残っています。白壁に紅殻格子(べんがらごうし)、虫篭窓(むしごまど)、二階の低い建物が通りに面して続いています。本町二丁目

石碑 旭の森 石碑

旭森小学校の西側に「旭の森」と書かれた石碑があります。 大正6年(1917年)11月14日から、湖東地方いったいに陸軍の特別大演習というのがありました。 その時、大正天皇が彦根に来られ、その演習の様子

石碑 明治天皇摺針峠御小休所

江戸時代、磨針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていました。 峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら「するはり餅」に舌鼓を打ったと言われています。 参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の

石碑 明治天皇行在聖跡

中山道沿いの高宮宿の中ほどに圓照寺の山門があり、その前に明治天皇行在聖跡の大きな碑があります。 慶長19年(1614年)、徳川家康は佐和山から永原寺へ向かう途中、ここ圓照寺で休息しました。現在「家康公

石碑 明治天皇鳥居本御小休所

鳥居本宿の有川家住宅の隣に石碑があります。 有川家住宅の右手の建物は明治11年の明治天皇北陸巡幸の時に増築され、10月の11日と21日に休憩所となりました。

景観重要建造物 有川家住宅主屋

有川家住宅は、旧中山道鳥居本宿の北端近く、街道が大きく鉤手に曲がるところに位置しています。 今日も名産「赤玉神教丸」を製造・販売する店舗です。赤玉神教丸は下痢・腹痛・食傷などに効果のある妙薬で、多賀大

石碑 朝鮮人街道

朝鮮人街道は、野洲の行畑(現在は小篠原)で中山道から分岐し、琵琶湖近くを通り、近江八幡や東近江を経て彦根で再び合流します。その名は江戸時代、外国使節団である朝鮮通信使が現:ソウルから江戸まで訪れる際に

歌碑 木俣修顕彰歌碑

旧彦根藩城代家老・木俣氏の末裔として生まれた木俣修(1906年~1983年)は、少年時代より北原白秋氏に認められ、同氏に師事して短歌の道に歩まれ、白秋氏亡き後は、その後継者の一人として活躍されています

石碑 木俣屋敷跡

木俣守勝は旧彦根藩の筆頭家老でした。もとは明智光秀の家臣でしたが、軍功が目覚ましく、徳川家康に見いだされ、彦根藩に仕えました。

石碑 本町口御門跡

彦根城の外堀には7つの口が開いていました。 本町口御門は、外堀より城内へ入る御門で、本町御門は最も重要な御門の一つでした。

句碑 李由 句碑

「乞食の事 言うて寝る 夜の雪」 『韻塞』(李由・許六共編)に収録されています。 李由は、本名を河野通賢といいます。明照寺第十四世亮隅は李由と稱し、芭蕉の高弟です。現在の荘厳な本堂は李由の手に依るも

景観重要建造物 村岸家住宅

彦根道にある「七曲がり」の屈曲部分に面する江戸時代後期を代表する町屋の建造物で、城下町の歴史的景観を先導する建物です。 主屋は桁行が9.2m、梁間が14m、切妻平入り、桟瓦葺2階建て。 入り口には潜り

名勝 松原下屋敷(お浜御殿)

松原下屋敷(お浜御殿)は、11代当主井伊直中により文化7年(1810年)ころに琵琶湖畔に造営された下屋敷です。 旧彦根藩のもう一つの下屋敷である槻御殿(玄宮楽々園)とは立地や趣とも異なり、公式性を離れ

松原水泳場

白砂の浜が1km続き、松林も美しい浅瀬の水泳場で家族連れでにぎわいます。鳥人間コンテスト選手権大会の会場としても知られています。 ※バーベキュー等火気の使用についてはご遠慮いただいております。

句碑 松尾芭蕉 句碑

高宮宿の高宮神社随身門横の笠砂園内に松尾芭蕉の句碑があります。 「をりをりに 伊吹をみてや 冬籠」 この句は元禄4年、芭蕉が48歳、冬の作といわれ、芭蕉門弟で千川亭の兄弟の堂に泊まって詠んだ句。

句碑 松尾芭蕉 句碑

芭蕉は1691年秋に大津から江戸に向かう途中で明照寺に立ち寄りました。 寺院内の池泉回遊式庭園には李由の手植えの梅がります。芭蕉は庭園を鑑賞しながら 「百歳の 気色を庭の 落葉かな」という句を詠んでお

石碑 松尾芭蕉 笹塚

元禄4年10月、明照寺を訪れた芭蕉は愛弟子李由に形見として与えた桧笠を埋めて笠塚としました。

句碑 松尾芭蕉 紙子塚

高宮宿のちょうど真ん中あたりに句碑があります。 「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」 貞享元年(1684年)の冬、縁あってこの家の主の許しで一泊した俳人の松尾芭蕉は、自分が横になっている姿の絵を描

石碑 松雨亭跡

松雨亭は、石碑より約70m西にあったとされ、1719年頃に開塾したと伝えられています。 澤村琴所(1686年〜1739年)。名は維顕。琴所は号。 父は彦根藩士・澤村左平太。14歳で彦根藩主・直道公の近

登録有形文化財 森家住宅主屋

通りに南面する二階建ての町屋。 正面を黒漆喰で塗り込めて虫籠窓を穿ち、両袖に漆喰で縁取りした袖うだつを設け、軒先やけらばも漆喰仕上げとしています。内部は東に土間玄関を配し、居室部は手前からミセノマなど

句碑 森川許六 句碑(五老井跡)

芭蕉高弟の森川許六の別荘跡です。 旧中山道から位左谷川を渡ると東海道新幹線高架があり正面は墓苑ですが、高架下を通り抜け左の墓地管理事務所が奥にあります。 句碑は、彦根藩士・谷鉄臣の筆によるもので、

石碑 森川許六墓所

森川許六は、明暦2年(1656年)8月14日の生まれ。本名を森川百仲といい、禄高300石。通称を五助、五老井・菊阿佛・無々居士を号した彦根藩士で、代々、武術指南役を務める武術の達人でした。 屋敷は、彦

石碑 森川許六屋敷跡

森川許六は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲。旧彦根藩の藩士で、絵師でもあった。 市内には墓所や句碑などが点在し、また、龍潭寺には森川許六が描いた襖絵があります。

名勝 楽々園

旧彦根藩主の下屋敷で「槻御殿」の名のほかに、黒門外(前)屋敷とも称されましたが、現在は「楽々の間」にちなんで「楽々園」と呼ばれています。 1677年、四代藩主・井伊直興により造営が始まり、1679年に

旧彦根藩水主屋敷 水主小頭・旧磯﨑家住宅

彦根藩には船奉行の配下に水主衆がおり、平時には船小屋番舟役として松原湊に詰め、有事には船奉行に従って水軍を構成しました。水主衆の人員は、承応3年(1654年)の55人を初見に、2代井伊直孝代50人、3

石碑 油屋口御門跡

彦根城の外堀には7つの口が開いていました。 油屋口御門は、現在の彦根商工会議所のあたりにありました。

治部少丸

花しょうぶ通り商店街に4軒目の街の駅「治部少丸」があります。 治部少丸は石田三成の官位・治部少輔から命名。戦国武将のテーマ館として旧とも栄履物店を改装する形で整備されました。「戦国・三成」というコンセ

石碑 湖東焼窯跡

佐和山の麓、近江鉄道本線が走るトンネルを彦根側に出た西側一帯に湖東焼の窯跡が残っています。 湖東焼は江戸時代後期、文政12年(1829年)、彦根の商人絹屋半兵衛が、当時先端技術の華であった磁器の焼成導

登録有形文化財 滋賀中央信用金庫 銀座支店

滋賀中央信用金庫銀座支店の建物は、「久佐の辻」と呼ばれる交差点の東北角に建つ洋風建築です。 建物はもともと明治銀行彦根支店として、大正7年(1919)に建てられました。棟札によれば「工事請負人」は杉江

登録有形文化財 滋賀大学経済学部講堂

この建物は、旧彦根高等商業学校講堂として建てられました。 彦根高等商業学校は、大正12年に開校し、講堂は翌年竣工しました。木造2階建て、講堂と大教室とからなり、内部には重厚な中央ステージと2階三方にギ

ヴォーリズ建築 滋賀大学陵水会館

陵水会館は、滋賀大学経済学部の構内にあるヴォーリズ建築です。昭和13年彦根高等商業学校の同窓会館として、高商の学生が「集団勤行」で埋め立てた壕の上に建設されました。左右対称の木造2階建で中央にベランダ

レトロな建築 滋賀銀行 彦根支店

銀座街の中央に滋賀銀行彦根支店があります。 その前身は、明治12年に開業した第百三十三国立銀行で、彦根製糸場や近江鉄道の発展を資金面で支えてきました。この建物は大正14年に竣工、耐震耐火に優れたコンク

無賃橋

高宮宿の端を流れる犬上川に橋がかかっています。 天保のはじめ、彦根藩は増水時の「川止め」で川を渡れなくなるのを解消するため、この地の富豪の藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門らに命じて費用を広く一

名勝 玄宮園

城の北東にある大名庭園で、琵琶湖や中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模してつくられました。4代藩主直興が延宝5年(1677年)に造営したとされています。 毎年11月には「錦秋の

石碑 琵琶湖八景 彦根の古城

琵琶湖八景は、昭和25年(1950年)、琵琶湖とその周辺が琵琶湖国定公園に指定されたのを契機に、琵琶湖の雄大さと変化に富んだ景観が選定されました。 その中の一つに、「月明かりに浮かび上がる壮麗な彦根城

歌碑 琵琶湖周航の歌 歌碑

琵琶湖周航の歌の5番に登場する彦根。 1~6番の歌碑のうち最後にできた歌碑で、平成17年に設立されました。 5番の歌詞を見ると、作詞者の小口太郎ら旧制第三高等学校(現・京大)ボート部のメンバーが周航中

甘呂城跡

甘呂城は、甘呂地区の願宗寺東側の小字城と呼ばれている辺りに築かれていたとされています。  現在は、宅地化され小字名でしか残っていませんが、資料に拠れば1町四方を土塁が囲繞していたと考えられています。近

登録有形文化財 百々家住宅主屋

鳥居本町は江戸時代を通じて中山道の宿場町として栄えた町です。参勤交代制度の確立する寛永年間(1624年〜1644年)には宿駅の拡充整備が図られ、旧鳥居本村に新たに上矢倉村・西法寺村・百々村が加わって、

石碑 百閒橋跡

通称「百間橋」は、当時佐和山城の西に広がっていた松原内湖にクランク状に架けられた通路のうち、松原側(琵琶湖側)に設けられた木橋のことで、古絵図などの記録から幅三間(約5.4m)、総延長三百間(約540

石寺浜松並木

琵琶湖岸に約3キロにわたって続く石寺の松並木で、松の間からは、沖合約6.5キロ先に浮かぶ多景島を見ることができます。彦根八景の一つに数えられます。

石川千代松像

彦根旧港湾のほとりに、石川千代松博士の銅像が建てられています。 石川千代松(1861〜1935年)は、琵琶湖に産する小鮎は鮎が湖内に封じ込められてできたた生態学上にいう陸封現象の所産であって、鮎と別種

石田三成公座像

龍潭寺の参道に石田三成の座像があります。 石田三成は、永禄3年(1560年)、長浜市石田町で生まれました。 観音寺での献茶が出世の糸口となり、豊臣秀吉に見込まれて、長浜城で錬成され、わずか26歳で五奉

石碑 石田三成屋敷跡

佐和山の麓に、石田三成屋敷跡の石碑があります。 天正18年(1590年)に佐和山城の主となった三成の時代には本丸以外にも二の丸、三の丸などができており、山の下に作られた二重の堀の内側には侍屋敷や足軽屋

句碑 祇川 白髪塚

中山道沿いにある原八幡神社の鳥居の脇に小さな石碑が残されています。 また、鳥居をくぐり奥へ進むと句碑があります。 「恥ながら残す白髪や秋の風」 聖徳太子と守屋との戦い等、幾多の戦の将士達をあわれみ

福満遺跡(福満公園)

福満遺跡の発見は、大正7年にさかのぼり、旧城南小学校北側水田の地下約1mの深さのところから、弥生時代後期の土器が掘り出されたことによります。この土器は、現在、城南小学校に保管されており、この地方の弥生

石碑 米惣騒動百姓一揆跡

「米惣」とは米屋惣七のこと。明治3年(1870年)、彦根は悪天候が続き米も不作でした。その上、台風が直撃し堤防が決壊したため、家々が押し流されました。「米惣が池に汚物を投げ込んだから、池の龍が怒った。

義言地蔵(長野義言牢屋・処刑跡)

城町郵便局の前に義言地蔵尊がひっそり佇んでいます。ここに祀られた長野主膳義言(ながのしゅぜんよしとき)は井伊直弼の腹心として幕末政治に活躍しましたが、直弼亡き後は、藩論も尊皇攘夷に転換する中、直弼の頭

石碑 肥田城水攻め堤跡

肥田城遺跡は愛知郡を流れる宇曽川の自然堤防上にある城館遺跡です。大永年間(1521~1528)の築城が伝えられています。地表面に現存する遺構はほとんどありませんが、田畑等の土地の地割り(土地の形)から

肥田城跡

肥田城は、宇曽川(うそがわ)をへだてて隣接する高野瀬城(豊郷町)を本拠とする土豪(土着の豪族)高野瀬隆重(たかのせたかしげ)が、江南を領した戦国大名六角氏の命により築いたと伝える平地城館(へいちじょう

句碑 芭蕉 昼寝塚

中山道沿いにある原八幡神社の鳥居の脇に小さな石碑があります。 さらに、鳥居をくぐり、奥へ進むと句碑があります。 「ひるかおにひるねせうものとこのやま」 俳聖松尾芭蕉が中山道を往来する旅人が夏の暑い

石碑 花の生涯記念碑

世情騒然たる幕末に、開国の英断を下した大老井伊直弼の波乱に富んだ一生を描いた「花の生涯」(作者:舟橋聖一=彦根名誉市民第一号)が発表され、人々に深い感銘を与え、映画・演劇として、またNHK大河ドラマを

芹川のけやき並木

彦根城築城の際、南側に対する防御と城下町用地を確保するために、芹川の流路を現在の位置に付け替え、両岸には護岸のため多くの樹木が植えられました。 その当時植えられたけやきは、今では樹齢400年を超える巨

若宮八幡宮(産の宮)

中山道沿いに、足利義詮の伝説の「産の宮」があります。 南北朝の争乱の頃、足利尊氏の子義詮が、文和四年後光厳天皇を奉して西江州に戦い、湖北を経て大垣を平定し、翌五年京都に帰ることになりました。その時、義

登録有形文化財 若林家住宅洋室棟

主屋北東隅に接続する南北棟の二階建て。赤色瓦の半切妻屋根に煙突を立て、外壁を人造石洗出しとしています。内部は上下階とも洋室一室で、一階応接室では暖炉や腰掛付き出窓などにチューダー様式を取り入れ、天井の

茂賀山城跡

茂賀山城は小林氏代々の居城でした。 戦国時代になると京極氏・浅井氏の臣下となりました。 姉川の戦いでは、小林宗正が藤堂高虎とともに、織田信長の本陣まで迫る勇猛振りを発揮し、信長にも賞賛されたが、宗正は

国指定史跡 荒神山古墳

荒神山古墳は、4世紀末に造られた全長124mの前方後円墳です。 彦根市西方、琵琶湖岸に近い湖東平野の独立丘である荒神山(標高284.1メートル)の山頂から、北へ約150メートル下った尾根頂部に位置して

葛籠北遺跡

彦根市立彦根中学校が昭和60年(1985年)に建設される際、古墳時代の十基の古墳と三基の木棺墓、奈良時代の堀立柱建物跡三棟などがこの地で発見されました。

蓮台寺城跡

蓮台寺町は、河瀬一族である蓮台寺房盛が居城とした地です。蓮台寺氏は京極氏の零落の後は、浅井氏の被官(家臣)として村落支配に当たっていました。

虎徹の井戸跡

長曽根虎徹(1596〜1678)は名を興里(おきさと)、入道して古鉄・虎徹と称しました。近江長曽根に生まれ、江戸に出て刀工として大成したとされている。虎徹が作刀の修行をしたとされる井戸が今も長曽根の湖

石碑 谷鉄臣屋敷跡

谷鉄臣は、幕末・明治の彦根藩士・医者。近江生まれ。 字は百錬、号は大湖・如意山人。左院一等議官・宮内省京都支庁御用掛となり、従四位勲四等を賜わります。官を辞したのち、京都に住し、儒学や風雅の道に遊びま

越川城跡

越川城は、宇曽川右岸に位置する三津地区の中心部全域が城域とされています。 築城年代や築城者が定かではありませんが、宇曽川を挟んで対岸にある肥田城の支城として築かれて、高野瀬氏の家臣久木氏が城主として在

旧彦根藩足軽組屋敷 辻番所

辻番所は間口が1間、奥行きが2間の切妻造りで、朝瓦葺の4畳余りの小さな小屋です。 足軽屋敷の辻(四つ角)に設けられ、見張り窓がついた貴重な施設として「辻番所」と呼ばれています。 辻番所は城下町への侵入

登録有形文化財 近江鉄道 鳥居本駅舎

明治29年(1896年)に彦根-貴生川間の区間で近江鉄道は開業しました。昭和6年(1931年)には彦根-米原間が開通し、同時に鳥居本駅舎も建設されました。 その後、建て替えらえましたが、山小屋風な腰折

連着町の腹痛石

彦根城が築城される以前、彦根山には、近江の国司藤原房前が亡母の供養に建立した彦根寺という霊験あらたかな古刹がありました。 房前の護持仏であった金色の亀の背に乗った一寸八分の観音様を本尊としていたため、

石碑 遠城謙道師の碑

遠城謙道は、旧彦根藩士で文政6年(1823年)に彦根で生まれました。 15歳で鉄砲隊に入りますが、藩医・堀田道策に医術を学んだのを始め、儒学や画を学ぶなどして、特に禅の修行を積んだことで武士の魂を磨き

国指定文化財 重要伝統的建造物群保存地区(彦根市河原町・芹町地区)

彦根城下町の南東部に位置する河原町、芹町は慶長9年(1604年)から始まった彦根城の築城に伴う新たな城下町の建設に起源を有し、城下町内外の人々が集まる繁華街として栄えた伝統的なまちなみを残しています。

野良田表の戦い

肥田城は六角氏の命により築かれた高野瀬氏代々の居城ですが、高野瀬秀隆の代に浅井氏に通じたため、永禄2年(1559年)、六角承禎の攻撃を受けました。

市指定文化財 金亀会館

金亀会館は、藩校弘道館の講堂を大正12年に中央町の現在地に移築した建物です。講堂は、中央に「本堂」、周囲に「庇」、さらに前後には「孫庇」を設け、正面中央に切妻屋根の玄関を付けています。後ろの孫庇の中央

石碑 長野主膳義言屋敷跡

井伊直弼の片腕として活躍した長野主膳。埋木舎時代には国学の師として、そして藩主・大老時代には優秀なブレーンとして直弼政権を支えました。その長野主膳の屋敷跡が彦根市立花町にあります。 現在は駐車場となっ

石碑 長野伊豆屋敷跡

彦根東高校正門の前に長野伊豆屋敷跡の石碑があります。 長野伊豆は、彦根藩の家老として藩政発展に尽力しました。井伊直弼のブレーンとして有名な「長野主膳」とよく間違われますが、別人です。

市指定文化財 馬場家住宅

馬場家住宅は、旧中山道高宮宿の北よりにある高宮神社の参道南側に位置しています。 馬場家には「馬場家古文書」と称される大量の史料が伝来しており、商家としての歴史的推移を追認することができます。それによる

国指定重要文化財 馬屋

表門の外、内堀と道路を隔てて建っている細長い建物が馬屋です。 この馬屋は、全国の近世城郭に残る大規模な馬屋としてほかに例がなく、国の重要文化財に指定されています。

石碑 高宮口御門跡

彦根城の外堀には7つの口が開いていました。 高宮口御門は、中山道の高宮方面から彦根城下に入る「彦根道」に通じるとともに、朝鮮人街道にもつながる重要な口でした。また高宮口を入り、北の切通口まで城下町をま

高宮城跡

高宮は古代犬上郡十郷の1つで、高宮郷の地です。 中世には荘園(高宮荘・高宮保)が成立し、東山道筋には市も立っていました。当時、高宮を領した高宮氏には2系統がありました。1系統は鎌倉時代末に当地へ地頭と

高宮宿 本陣跡

高宮宿は、中山道の64番目の宿場町で、現在は滋賀県彦根市高宮町になります。 江戸時代の参勤交代により、大名が泊まる施設として各宿場に設けたのが本陣です。 構造も武家風で、玄関・式台を構え、次座敷・次の

高宮宿 脇本陣跡

江戸時代、高宮宿には二軒の脇本陣があり、その一つがこの地に置かれました。 門構えで玄関があり、間口が約8間、建坪が約74坪であったとされています。門前は領主の禁令などを掲示する高札場になっていました。

鳥居本宿 脇本陣跡

鳥居本宿には脇本陣が二軒ありましたが、本陣前の脇本陣は早くに消滅し、問屋を兼ねた高橋家の様子は、上田道三氏の絵画に残されています。 それによると、間口のうち左三分の一ほどに塀があり、その中央の棟門は脇

市指定文化財 鹿島家住宅

彦根市肥田町は、彦根市南部を流れる宇曽川の南側に位置し、湖東平野の広大な水田地帯の典型的な農村集落です。しかし、戦国時代には土豪・高野瀬氏の居城であった肥田城と密接な関係にあった集落であり、鹿島家住宅

彦根城外堀跡

目の前に広がる凹地は、江戸時代の外堀跡です。 かつては、現在の車道を含んだ堀幅があり、満々と水を湛えていました。江戸時代には、この外堀はさらに城下町の北東までまっすぐに伸びて御船入で松原内湖につながり

茂賀山城跡

茂賀山城は小林氏代々の居城でした。 戦国時代になると京極氏・浅井氏の臣下となりました。 姉川の戦いでは、小林宗正が藤堂高虎とともに、織田信長の本陣まで迫る勇猛振りを発揮し、信長にも賞賛されたが、宗正は

彦根城舟町口跡

彦根城は、中堀に面して4つの城門が開いていました。その1つが舟町口門です。 舟町口門は、東の佐和口、南の京橋口、北の長橋口とともに、彦根城の4つの門の1つです。 舟町口から城内に入り、北側に進むと、内

彦根城京橋口跡

彦根城は、中堀に面して4つの城門が開いていました。その1つが京橋口門です。 京橋口門は、第2の郭の重臣屋敷と第3郭の本町筋の間にあり、内堀の大手門にも通じる要所に位置しています。 門の内側に設けられた

彦根城長橋口跡

彦根城は、中堀に面して4つの城門が開いていました。その1つが長橋口門です。 彦根城内の山崎曲輪の手前に山崎御門があり、その外側にあたります。 東の佐和口、南の京橋口、西の舟町口とともに、彦根城の4つの

国宝 彦根城

姫路城、松本城、犬山城、松江城とともに国宝に指定されている彦根城。 天守をはじめ、重要文化財の各櫓、下屋敷の庭園である玄宮園、内堀・中堀などが当時の姿を留めています。全国的に見てもきわめて保存状態のよ

宇尾城跡

宇尾町はかつて「大宇」とも呼ばれ、河瀬一族である大宇大和守高秀と秀則の2代が居城したところです。高秀は、一時期、隣村の甘呂に居住していたようですが、後に当地に城館を移して、大宇と名乗りを改めたといいま

蓮台寺城跡

蓮台寺町は、河瀬一族である蓮台寺房盛が居城とした地です。蓮台寺氏は京極氏の零落の後は、浅井氏の被官(家臣)として村落支配に当たっていました。

佐和山城大手門跡

東山道(のちの中山道)側に開いていた佐和山城正面の大手口の跡です。 かつて、ここには大手門が築かれ、左右に土を盛って築いた土塁が伸びていました。大手門は彦根市内に現存する宗安寺の表門と伝えられており、

名勝 楽々園

旧彦根藩主の下屋敷で「槻御殿」の名のほかに、黒門外(前)屋敷とも称されましたが、現在は「楽々の間」にちなんで「楽々園」と呼ばれています。 1677年、四代藩主・井伊直興により造営が始まり、1679年に

越川城跡

越川城は、宇曽川右岸に位置する三津地区の中心部全域が城域とされています。 築城年代や築城者が定かではありませんが、宇曽川を挟んで対岸にある肥田城の支城として築かれて、高野瀬氏の家臣久木氏が城主として在

新海城跡

新海は「新開」とも書き、新しい開発地であることを示しています。 この新海の地を開発したのは、新開氏と伝えます。新開氏は愛智氏の長男の家仲を祖とする一族で、家仲以降代々が六角氏の命により当地の開発を努め

甘呂城跡

甘呂城は、甘呂地区の願宗寺東側の小字城と呼ばれている辺りに築かれていたとされています。  現在は、宅地化され小字名でしか残っていませんが、資料に拠れば1町四方を土塁が囲繞していたと考えられています。近

彦根城佐和口多門櫓(開国記念館)

「開国記念館」は、昭和35年(1960年)に井伊直弼の没後100年を記念する事業として、彦根市民の浄財によって、彦根城の佐和口多聞櫓を再現したものです。 「いろは松」に沿った登城道の正面に佐和口があり

肥田城跡

肥田城は、宇曽川(うそがわ)をへだてて隣接する高野瀬城(豊郷町)を本拠とする土豪(土着の豪族)高野瀬隆重(たかのせたかしげ)が、江南を領した戦国大名六角氏の命により築いたと伝える平地城館(へいちじょう

市指定文化財 山崎山城跡

山崎山城跡が築かれた山崎山は、琵琶湖岸近くにそびえる荒神山の南東にある小さな独立丘です。 山崎山城跡は、この小丘の山頂の東半分に築かれています。平地と比高は約50メートル。眼下には、織田信長が岐阜から

高宮城跡

高宮は古代犬上郡十郷の1つで、高宮郷の地です。 中世には荘園(高宮荘・高宮保)が成立し、東山道筋には市も立っていました。当時、高宮を領した高宮氏には2系統がありました。1系統は鎌倉時代末に当地へ地頭と

名勝 松原下屋敷(お浜御殿)

松原下屋敷(お浜御殿)は、11代当主井伊直中により文化7年(1810年)ころに琵琶湖畔に造営された下屋敷です。 旧彦根藩のもう一つの下屋敷である槻御殿(玄宮楽々園)とは立地や趣とも異なり、公式性を離れ

佐和山城跡

佐和山城の歴史は古く、鎌倉時代初期、近江源氏・佐々木定綱の六男時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりと伝えられています。その後、佐々木氏は湖南の六角氏と湖北の京極氏に分かれて対立。佐和山城は両勢力の境

名勝 玄宮園

城の北東にある大名庭園で、琵琶湖や中国の瀟湘(しょうしょう)八景にちなんで選ばれた近江八景を模してつくられました。4代藩主直興が延宝5年(1677年)に造営したとされています。 毎年11月には「錦秋の

妙源寺赤門

妙源寺赤門は石田三成公の佐和山城法華丸の山門を移築したと伝えられています。

旧彦根藩武家屋敷 大村家住宅

近年、彦根藩ゆかりの武家屋敷はほとんど残っていません。 とくに50石から300石の知行取(ちぎょうどり)の武家屋敷については大村家を除けば皆無に近い状況にあります。 当家は主屋とともに門や長屋も残って

旧彦根藩水主屋敷 水主小頭・旧磯﨑家住宅

彦根藩には船奉行の配下に水主衆がおり、平時には船小屋番舟役として松原湊に詰め、有事には船奉行に従って水軍を構成しました。水主衆の人員は、承応3年(1654年)の55人を初見に、2代井伊直孝代50人、3

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・旧磯島家住宅

善利組・旧磯島家住宅は、主屋が間口が4間半、奥行きが6間の切妻造り・桟瓦葺の中二階形式で、表に向かって下屋をかけます。出入口は、門をくぐって左に前庭を見ながら「どま」より「げんかん」に入る平入です。

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・吉居家住宅

彦根城下の足軽屋敷は、城下町を取り囲むように屋敷を連ねており、そのうち、最も規模の大きかったのが善利組です。幕末期には約700個戸の足軽屋敷がありましたが、現在はその1割以下にまで減少しています。 吉

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・林家住宅

善利組・林家住宅は、通りに面して格子戸と板戸からなる古様の木戸門を構え、周囲は板塀で囲まれています。 門より1間入った位置にある主屋は、間口5間、奥行き4.5間の切妻造りの桟瓦葺です。外壁および軒裏は

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・北川家住宅

北川家住宅は、旧芹橋10丁目中ほど、表通りの東南側に位置しています。天保7年(1836年)に作成された「御城下惣絵図」では、間口が5間、奥行きが10間の敷地として描かれていますが、現在は、西隣の敷地を

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・椿居家住宅

椿居家住宅は、旧芹橋14丁目に位置しています。「御城下惣絵図」には間口4間半、奥行き10間の敷地として記されていますが、この後に南隣の屋敷を与えられ、間口10間となって現在にいたっています。

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・服部家住宅

善利組・服部家住宅は、旧芹橋12丁目のほぼ中央、旧大辻通りと旧中辻通りの間に位置しています。 主屋は間口が4間、奥行きが5間半の切妻造・桟瓦葺の中2階形式で、通りに面して妻面を見せ、表に向かって下屋を

市指定文化財 吉川家住宅

吉川家住宅は、現在の城町1丁目、江戸時代には城下町の中堀と外堀の間にあった下魚屋町の町筋北側に位置しています。 下魚屋町はその町名のとおり、城下町建設当初は魚を取り扱う商業者が集住する同業者町でした。

旧彦根藩足軽組屋敷 中藪組・瀧谷家住宅

彦根城下の足軽組屋敷は、城下町のもっとも外側に、城下を取り囲むように屋敷を連ねて彦根城と城下町を守備する役割を担っていました。彦根藩の足軽は、慶長期(〜1614年)に中藪組6組と善利組12組が設置され

登録有形文化財 成宮家住宅主屋

中山道鳥居本宿に西面して建つ町屋で、木造平屋一部二階建てで上部を漆喰塗り込みとして虫籠窓を穿ちます。内部は南寄りを通土間とし、床上部は手前よりイマなどを並べる。正面の出格子を駒寄せで囲い、土間入口にト

市指定文化財 鹿島家住宅

彦根市肥田町は、彦根市南部を流れる宇曽川の南側に位置し、湖東平野の広大な水田地帯の典型的な農村集落です。しかし、戦国時代には土豪・高野瀬氏の居城であった肥田城と密接な関係にあった集落であり、鹿島家住宅

市指定文化財 馬場家住宅

馬場家住宅は、旧中山道高宮宿の北よりにある高宮神社の参道南側に位置しています。 馬場家には「馬場家古文書」と称される大量の史料が伝来しており、商家としての歴史的推移を追認することができます。それによる

県指定文化財 彦留神社本殿

彦留神社本殿は、滋賀県に多く見られる三間社流造りと呼ばれる形式の本殿で、棟札より明和3年(1766年)に建立されたことがわかります。

市指定文化財 佐々木家住宅

佐々木家住宅は、芹川の南側、雨壺山の北側に位置しており、水と緑に恵まれた環境に建てられた住宅です。 もともと、日本生命の創設者で彦根市出身の弘世助三郎が別荘として建立したのが始まりです。 住宅は、彦根

登録有形文化財 旧志賀谷住宅主屋(本町宿)

旧職人町に位置する町屋です。 木造造二階建て、切妻造浅瓦葺平入で、正面二階には袖壁が設けられています。当初は通り土間に床上部二列六室であったと考えられ、小屋は中心部を和小屋として、その前方後方に登梁を

旧彦根藩足軽組屋敷 辻番所

辻番所は間口が1間、奥行きが2間の切妻造りで、朝瓦葺の4畳余りの小さな小屋です。 足軽屋敷の辻(四つ角)に設けられ、見張り窓がついた貴重な施設として「辻番所」と呼ばれています。 辻番所は城下町への侵入

登録有形文化財 森家住宅主屋

通りに南面する二階建ての町屋。 正面を黒漆喰で塗り込めて虫籠窓を穿ち、両袖に漆喰で縁取りした袖うだつを設け、軒先やけらばも漆喰仕上げとしています。内部は東に土間玄関を配し、居室部は手前からミセノマなど

登録有形文化財 旧石橋家住宅中主屋

東主屋と西主屋の間に棟をそろえて建つ、木造平屋一部二階建て、切妻造浅瓦葺の風格ある構えを持つ町屋です。二階を漆喰塗り込みとし、袖うだつをあげています。西寄りに幅広の土間を通し、背後に広い台所が設けられ

登録有形文化財 旧石橋家住宅東主屋

通りに南面し、前面に二階建ての表屋を構え、玄関と中庭を介して住居部が建てられています。表屋は前面に出格子をたてて東端を土間とし、住居部は東寄りに土間を通し、居室は整型四間取で後方に風呂等が張り出してい

登録有形文化財 旧石橋家住宅西主屋

中主屋の西側に接続する建ちの低い外観の二階建てで、軒裏まで中塗りで塗り込め、中央に虫籠窓を穿ちます。屋根は切妻造浅瓦葺で、西端に袖うだつが設けられています。内部は中央に通土間をのばし、左右に居室が一列

登録有形文化財 旧佐藤家住宅主屋

芹川沿いに所在する二階建て町屋。一階正面に鉄格子の出窓を設け、出桁造りの二階は塗り込めて瓦屋根の袖うだつを帳出し、重厚な正面構えを見せます。内部は上下階の全面に洋室を配する他は座敷等となっています。伝

登録有形文化財 百々家住宅主屋

鳥居本町は江戸時代を通じて中山道の宿場町として栄えた町です。参勤交代制度の確立する寛永年間(1624年〜1644年)には宿駅の拡充整備が図られ、旧鳥居本村に新たに上矢倉村・西法寺村・百々村が加わって、

登録有形文化財 不破家住宅主屋

旧高宮宿で通りに西面する入母屋造妻入の二階建ての建築です。 平面は右手に幅広の土間を通し、左手に四室ずつ二列に並びます。良材を用いた譜請で座敷飾も上質です。塗り込みの外部に柱形などを表し、正面開口部に

国指定重要文化財 馬屋

表門の外、内堀と道路を隔てて建っている細長い建物が馬屋です。 この馬屋は、全国の近世城郭に残る大規模な馬屋としてほかに例がなく、国の重要文化財に指定されています。

登録有形文化財 若林家住宅洋室棟

主屋北東隅に接続する南北棟の二階建て。赤色瓦の半切妻屋根に煙突を立て、外壁を人造石洗出しとしています。内部は上下階とも洋室一室で、一階応接室では暖炉や腰掛付き出窓などにチューダー様式を取り入れ、天井の

市指定文化財 彦留神社 石造宝塔

彦留神社については、延歴年間(782年~806年)の創祀で、近江守護佐々木京極氏の崇敬が厚く、近郷の在地領主も武人として崇めたと伝わっており、江戸時代には亥大明神・彦留亥神と称し、明治以降に彦留神社と

市指定文化財 塔心礎(普光寺廃寺)

普光寺廃寺は、彦根市普光寺町の廣濱神社一帯に建立されていた白鳳寺院です。 白鳳寺院は7世紀後半に建てられた古代寺院で、市内には普光寺廃寺のほかに5か所でその痕跡が確認されています。周囲には「堂畑」「堂

登録有形文化財 加藤家住宅(旧布惣)主屋

中山道高宮宿の中心部に建つ元麻布商で、街道に西面して建っています。 木造2階建て。桁行が16.6m、梁間が12.4m、切妻造瓦葺。 前面を店舗、背面を田の字型の床上部とし、正面は海老虹梁状の腕木や二階

県指定文化財 多賀大社 一の鳥居

多賀大社から西方約4キロメートルの表参道に面して位置する石造明神鳥居は、同社の旧境界域を示しています。 多賀大社の創立は、奈良時代に完成した「古事記」や平安時代に編纂された「延喜式」にも見られます。

宗安寺赤門

宗安寺赤門は石田三成公の佐和山城大手門を移築したと伝えられている。

景観重要建造物 岩根家住宅

鳥居本町は、彦根市の北部に位置し、江戸時代には鳥居本宿として中山道の宿場町として栄えました。天保14年(1843年)の時点で家数は293軒、人口は1448人で35軒の旅籠があったとされています。南では

ヴォーリズ建築 寺村家住宅主屋

鳥居本本宿の本陣を代々務めた寺村家は、観音寺城六角氏の配下にありました。六角氏滅亡後、小野宿の本陣役を務めました。佐和山城落城後、小野宿は廃止され、慶長8年(1603年)鳥居本に宿場が移ると、鳥居本宿

景観重要建造物 有川家住宅主屋

有川家住宅は、旧中山道鳥居本宿の北端近く、街道が大きく鉤手に曲がるところに位置しています。 今日も名産「赤玉神教丸」を製造・販売する店舗です。赤玉神教丸は下痢・腹痛・食傷などに効果のある妙薬で、多賀大

登録有形文化財 近江鉄道 鳥居本駅舎

明治29年(1896年)に彦根-貴生川間の区間で近江鉄道は開業しました。昭和6年(1931年)には彦根-米原間が開通し、同時に鳥居本駅舎も建設されました。 その後、建て替えらえましたが、山小屋風な腰折

景観重要建造物 上野家住宅主屋

彦根の城下町は慶長9年(1604年)から始まった彦根城の築城に伴い建設されました。 上野家住宅の建つ旧本町一帯は、城下町建設の当初に着手されたと伝えられる町で、城下町のほぼ中心部に位置しています。当時

レトロな建築 滋賀銀行 彦根支店

銀座街の中央に滋賀銀行彦根支店があります。 その前身は、明治12年に開業した第百三十三国立銀行で、彦根製糸場や近江鉄道の発展を資金面で支えてきました。この建物は大正14年に竣工、耐震耐火に優れたコンク

レトロな建築 旧本町郵便局舎

本町郵便局は明治14年に開局した、彦根市で最初の郵便局です。 現在の局舎の北隣に大正期に建てられた2代目の建物が残っています。外観は大正期に流行したセッションの造形が巧みに用いられており、タイル張りの

登録有形文化財 旧秋口家洋館

秋口家住宅洋館の屋根裏には棟札が残されており、大正5年(1916)5月10日、巧匠渡辺領助、施主を秋口久次郎として上棟されたことがわかります。施主は神戸の異人館の建物を理想としてこの洋館を建てられたと

登録有形文化財 滋賀中央信用金庫 銀座支店

滋賀中央信用金庫銀座支店の建物は、「久佐の辻」と呼ばれる交差点の東北角に建つ洋風建築です。 建物はもともと明治銀行彦根支店として、大正7年(1919)に建てられました。棟札によれば「工事請負人」は杉江

登録有形文化財 宇水理髪館

宇水理髪館は河原3丁目の中央に位置し、通り北側にあります。 この建物は、切妻造・桟瓦葺・平入の構造ですが、表側は両端の柱がアーチを支えているような、洋風のモダンな外観となっています。また、アーチのキー

登録有形文化財 旧川原町郵便局舎(逞信舎)

高崎家住宅の建築年代は江戸後期と考えられます。 この建物は、江戸時代には表具屋を営んでおられたことから、江戸後期の文書も伝えられ、高崎家文書として彦根城博物館に保管されています。 昭和9年(1934)

レトロな建築 彦根地方気象台

明治26年彦根に設置された県立彦根測候所は、昭和7年鉄筋コンクリート2階建て・塔屋4階建ての現在の建物に改築され、同15年国立となり、32年に地方気象台に昇格しました。1階から塔屋まで螺旋状に上る階段

登録有形文化財 滋賀大学経済学部講堂

この建物は、旧彦根高等商業学校講堂として建てられました。 彦根高等商業学校は、大正12年に開校し、講堂は翌年竣工しました。木造2階建て、講堂と大教室とからなり、内部には重厚な中央ステージと2階三方にギ

登録有形文化財 俳遊館

旧彦根信用組合本店として大正12年(1923年)に建築されました。 旧白壁通町通りに面する大正時代の近代化遺産を代表する建造物です。木造2階建て、寄棟造、カラーベスト葺。 外観は箱型に単純化した建造物

景観重要建造物 村岸家住宅

彦根道にある「七曲がり」の屈曲部分に面する江戸時代後期を代表する町屋の建造物で、城下町の歴史的景観を先導する建物です。 主屋は桁行が9.2m、梁間が14m、切妻平入り、桟瓦葺2階建て。 入り口には潜り

景観重要建造物 奥野家住宅

旧魚屋町の東端に位置し、魚屋町通りを代表する最大級の町屋の建造物です。 江戸時代は郷宿を、明治時代から昭和30年ごろにかけて醤油の製造販売業を営んでいました。安政2年(1855年)の「普請見舞帳」から

景観重要建造物 旧広田家住宅

江戸時代には、この付近は「下魚屋町」といい、町名が示すとおり魚屋が立ち並んでいました。この旧広田家は「納屋七」という屋号でよばれ、魚問屋を営んでいました。 主屋の規模は桁行・梁間とも15.5m。桁行側

ヴォーリズ建築 滋賀大学陵水会館

陵水会館は、滋賀大学経済学部の構内にあるヴォーリズ建築です。昭和13年彦根高等商業学校の同窓会館として、高商の学生が「集団勤行」で埋め立てた壕の上に建設されました。左右対称の木造2階建で中央にベランダ

ヴォーリズ建築 旧彦根高等商業学校外国人教師住宅

滋賀大学の近くの彦根城の内堀と中堀に挟まれたところにヴォーリズ建築があります。 元々は、旧彦根高等商業学校(現・滋賀大学経済学部)の外国人教師の住宅として、ヴォーリズの設計で大正13年(1924年)に

ヴォーリズ建築 日夏里館

旧日夏村役場と産業組合合同庁舎として、昭和10年(1935年)に建設された建物で、昭和25年に日夏村が市に編入合併された後、平成13年までは建物の一角にJA東びわこ日夏支店が入っていました。閉鎖以降は

彦根城佐和口多門櫓(開国記念館)

「開国記念館」は、昭和35年(1960年)に井伊直弼の没後100年を記念する事業として、彦根市民の浄財によって、彦根城の佐和口多聞櫓を再現したものです。 「いろは松」に沿った登城道の正面に佐和口があり

国指定文化財 重要伝統的建造物群保存地区(彦根市河原町・芹町地区)

彦根城下町の南東部に位置する河原町、芹町は慶長9年(1604年)から始まった彦根城の築城に伴う新たな城下町の建設に起源を有し、城下町内外の人々が集まる繁華街として栄えた伝統的なまちなみを残しています。

登録有形文化財 スミス記念堂

昭和6年、日本聖公会彦根聖愛教会の牧師で彦根高商の英語教師でもあったパーシー・アルメリン・スミス氏が両親を記念し、大工宮川庄助氏と協力して城町の堀端に建設しました。外観は寺社建築を模しながら、梁や扉に

景観重要建造物 中村商家保存館

真宗信仰に生きた商人の家。当家は寛永年間(1628年〜47年)、彦根城が完成した頃とされる1622年とほぼ同じ時代に、現在の地に地割りを貰い本家から分かれて居を構え、酒醸を創業したのがその始まりです。

旧魚屋町の街並み

彦根市には、彦根三十五万石(まんごく)の往時を偲ばせる古い町並みが、比較的よく残っています。白壁に紅殻格子(べんがらごうし)、虫篭窓(むしごまど)、二階の低い建物が通りに面して続いています。本町二丁目

彦根城博物館

彦根城博物館は、江戸時代の彦根藩の政庁であった表御殿を復元したもので、井伊家に伝わる甲冑・刀剣、能道具・茶道具や調度のほか、古文書等を展示しています。また藩主が日常生活をいとなんだ「奥向き」は、御座の

市指定文化財 旧池田屋敷長屋門

旧池田屋敷長屋門は、彦根城の中掘に近い第三郭に建っています。かつて、池田屋敷のあった尾末町一帯には、中級武家屋敷が広がっていました。当建造物は彦根藩中級武家屋敷の典型をなす貴重な長屋門として、昭和48

旧脇屋敷長屋門

二の丸駐車場と彦根東高校の間に、家老脇家(2000石)のなまこ壁長屋門の一部が残されています。 桁行8.5間、梁間3間(北端部は2.5間)、南妻面が入母屋造り、北妻面が切妻造りで、外壁の西面はなまこ壁

市指定文化財 旧西郷屋敷長屋門

旧西郷屋敷長屋門は、彦根城下では現存する長屋門中最大のもので、特に正面の外観はほとんど旧形を保ち、旧武家屋敷の面影を残す貴重な遺構で、市の指定文化財です。 西郷家は遠州(現・静岡県)の出身で「34家」

市指定文化財 旧鈴木屋敷長屋門

旧鈴木屋敷長屋門は、彦根城の中堀に面した第三郭に建っています。 かつて当地一帯は300石以上の中級武家屋敷が広がっていました。 天保7年(1836)に城下町を描いた『御城下惣絵図』によると、当地には鈴

市指定文化財 金亀会館

金亀会館は、藩校弘道館の講堂を大正12年に中央町の現在地に移築した建物です。講堂は、中央に「本堂」、周囲に「庇」、さらに前後には「孫庇」を設け、正面中央に切妻屋根の玄関を付けています。後ろの孫庇の中央

句碑 冶天 句碑

荒神山の麓にある千手寺山門前に、旧彦根藩の俳人・森川許六の弟子である冶天の句碑があります。 冶天は、旧彦根藩の俳人で、芭蕉十哲の一人としても名高い森川許六のあとを継いで彦根蕉門道統三世となった森野冶天

石碑 琵琶湖八景 彦根の古城

琵琶湖八景は、昭和25年(1950年)、琵琶湖とその周辺が琵琶湖国定公園に指定されたのを契機に、琵琶湖の雄大さと変化に富んだ景観が選定されました。 その中の一つに、「月明かりに浮かび上がる壮麗な彦根城

歌碑 井伊文子氏歌碑

「川波の 渦の底ひに 身を沈め 祈りは永久の 安らけきなむ」 昔、犬上川がよく決壊したために、人柱として庄屋の娘の「おまるさん」を生き埋めにしたという伝説「まるどの堤」があります。 彦根市甘呂町の集

歌碑 井伊文子氏歌碑

「一身に責負ひまして、立ちましし、大老ありてこそ、開港はなりぬ」 井伊大老像前の歌碑は、明治100年にあたる1968年、彦根市と水戸市を親善都市として提携させた井伊直弼の曽孫で当時の彦根市長・井伊直

歌碑 木俣修顕彰歌碑

旧彦根藩城代家老・木俣氏の末裔として生まれた木俣修(1906年~1983年)は、少年時代より北原白秋氏に認められ、同氏に師事して短歌の道に歩まれ、白秋氏亡き後は、その後継者の一人として活躍されています

石碑 大坂の陣供養碑

大坂の陣、冬の陣は慶長19年(1614年)、夏の陣は慶長20年(1615年)。 彦根の大洞弁財天近く、JRの線路沿いに大坂の陣で亡くなった人々の供養碑があります。大坂の陣から84年後、元禄12年(16

石碑 天九郎俊長淬刃之水の碑

彦根市甘呂町に「天九郎俊長淬刃之水(てんくろうとしながさいとうのみず)」という石碑があります。「淬」の漢字は「淬(にら)ぐ」とも読み「赤熱した鉄を水に入れて鍛える、焼きを入れる」という意味です。井戸に

石碑 肥田城水攻め堤跡

肥田城遺跡は愛知郡を流れる宇曽川の自然堤防上にある城館遺跡です。大永年間(1521~1528)の築城が伝えられています。地表面に現存する遺構はほとんどありませんが、田畑等の土地の地割り(土地の形)から

石碑 明治天皇摺針峠御小休所

江戸時代、磨針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていました。 峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら「するはり餅」に舌鼓を打ったと言われています。 参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の

石碑 中山道・北国街道分岐道標

滋賀県は東日本と西日本の中間に位置しているため、古来より日本を代表する交通の要所でした。 近江から北陸へ向かう道は、琵琶湖の西岸を通る西近江路と東岸を通る東近江路があり、西近江路を北陸道と呼び、東近江

石碑 日下部鳴鶴屋敷跡

日下部鳴鶴(1838~1922)は、彦根藩士出身で、日本近代の代表的な書家です。 滋賀大学経済学部キャンパス内に屋敷跡の石碑があります。

石碑 明治天皇鳥居本御小休所

鳥居本宿の有川家住宅の隣に石碑があります。 有川家住宅の右手の建物は明治11年の明治天皇北陸巡幸の時に増築され、10月の11日と21日に休憩所となりました。

石碑 明治天皇行在聖跡

中山道沿いの高宮宿の中ほどに圓照寺の山門があり、その前に明治天皇行在聖跡の大きな碑があります。 慶長19年(1614年)、徳川家康は佐和山から永原寺へ向かう途中、ここ圓照寺で休息しました。現在「家康公

歌碑 万葉歌碑

元号「令和」の出典となった万葉集。その万葉集は現存する日本最古の歌集で、収録されている約4,500首のうち、滋賀県を背景に詠まれた和歌は約108首あります。近江の風景が人々の心に深く刻まれていたことが

石碑 中山道・彦根道(大堀町)

彦根道は、高宮宿の北隣に位置する大堀村で中山道を西に折れ、七曲りを経て橋向町で朝鮮人街道に合流する道であり、彦根城外堀の高宮口御門に至ります。彦根から高宮へ抜ける道であることから、高宮道とも呼ばれまし

石碑 博習学校跡

明治政府の学制頒布により、明治7年(1874年)9月、葛籠町、西葛籠町、出町の子どもたちの学び舎として、小玉氏家屋において開校されました。 明治19年11月に簡易科葛籠町小学校と改称。明治22年11月

石碑 松雨亭跡

松雨亭は、石碑より約70m西にあったとされ、1719年頃に開塾したと伝えられています。 澤村琴所(1686年〜1739年)。名は維顕。琴所は号。 父は彦根藩士・澤村左平太。14歳で彦根藩主・直道公の近

葛籠北遺跡

彦根市立彦根中学校が昭和60年(1985年)に建設される際、古墳時代の十基の古墳と三基の木棺墓、奈良時代の堀立柱建物跡三棟などがこの地で発見されました。

石碑 久左の辻

銀座商店街の入口に石碑があります。 江戸時代に彦根藩の御用商人であった近藤久左衛門がこの地一帯を所有していたが、没落後当地に名称のみが残ったとされています。

石碑 米惣騒動百姓一揆跡

「米惣」とは米屋惣七のこと。明治3年(1870年)、彦根は悪天候が続き米も不作でした。その上、台風が直撃し堤防が決壊したため、家々が押し流されました。「米惣が池に汚物を投げ込んだから、池の龍が怒った。

句碑 与謝蕪村 句碑

「鮒ずしや 彦根の城に 雲かかる」 彦根城内の天秤櫓前の廊下橋の脇に与謝蕪村(1716年~1783年)の句碑があります。 鮒ずしは日本三大珍味の一つであり近江を代表する郷土料理です。

句碑 李由 句碑

「乞食の事 言うて寝る 夜の雪」 『韻塞』(李由・許六共編)に収録されています。 李由は、本名を河野通賢といいます。明照寺第十四世亮隅は李由と稱し、芭蕉の高弟です。現在の荘厳な本堂は李由の手に依るも

石碑 松尾芭蕉 笹塚

元禄4年10月、明照寺を訪れた芭蕉は愛弟子李由に形見として与えた桧笠を埋めて笠塚としました。

句碑 松尾芭蕉 句碑

芭蕉は1691年秋に大津から江戸に向かう途中で明照寺に立ち寄りました。 寺院内の池泉回遊式庭園には李由の手植えの梅がります。芭蕉は庭園を鑑賞しながら 「百歳の 気色を庭の 落葉かな」という句を詠んでお

句碑 松尾芭蕉 句碑

高宮宿の高宮神社随身門横の笠砂園内に松尾芭蕉の句碑があります。 「をりをりに 伊吹をみてや 冬籠」 この句は元禄4年、芭蕉が48歳、冬の作といわれ、芭蕉門弟で千川亭の兄弟の堂に泊まって詠んだ句。

句碑 森川許六 句碑(五老井跡)

芭蕉高弟の森川許六の別荘跡です。 旧中山道から位左谷川を渡ると東海道新幹線高架があり正面は墓苑ですが、高架下を通り抜け左の墓地管理事務所が奥にあります。 句碑は、彦根藩士・谷鉄臣の筆によるもので、

石碑 恒河寺跡(竹ヶ鼻遺跡)

竹ヶ鼻遺跡は、彦根市竹ヶ鼻農住組合の土地区画整理事業に伴い、平成8年に彦根市教育委員会が発掘調査を行いました。

句碑 松尾芭蕉 紙子塚

高宮宿のちょうど真ん中あたりに句碑があります。 「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」 貞享元年(1684年)の冬、縁あってこの家の主の許しで一泊した俳人の松尾芭蕉は、自分が横になっている姿の絵を描

句碑 尚白 句碑

「みちばたに 多賀の鳥居の 寒さかな」 尚白は江戸前期の俳人。大津の医者で松尾芭蕉の高弟です。 姓は江左。字(あざな)は三益。近江大津の人で医を業としました。はじめ貞門・談林の俳諧を学びましたが、貞

石碑 大久保忠隣幽居跡

大久保忠隣は、松平家の重臣・大久保忠世の長男として三河(愛知県岡崎市)にて1553年に生まれました。 1563年から近習として仕えるようになり、1568年の遠江・堀川城攻めにて初陣を飾り、敵将の首をと

石田三成公座像

龍潭寺の参道に石田三成の座像があります。 石田三成は、永禄3年(1560年)、長浜市石田町で生まれました。 観音寺での献茶が出世の糸口となり、豊臣秀吉に見込まれて、長浜城で錬成され、わずか26歳で五奉

石碑 大東義徹生誕地跡

近江鉄道の敷設に深く関与し、近江鉄道の初代社長に就任した大東義徹は、彦根藩士で足軽の小西貞徹の次男として生まれました。 幼名を寛蔵。戊辰戦争に従軍し武功を立てます。戸籍編成の際、姓を小西から大東に改め

石碑 中村不能斎屋敷跡

中村不能斎は彦根藩の儒学者で「彦根山由来記」の著者として有名です。

石碑 百閒橋跡

通称「百間橋」は、当時佐和山城の西に広がっていた松原内湖にクランク状に架けられた通路のうち、松原側(琵琶湖側)に設けられた木橋のことで、古絵図などの記録から幅三間(約5.4m)、総延長三百間(約540

石碑 谷鉄臣屋敷跡

谷鉄臣は、幕末・明治の彦根藩士・医者。近江生まれ。 字は百錬、号は大湖・如意山人。左院一等議官・宮内省京都支庁御用掛となり、従四位勲四等を賜わります。官を辞したのち、京都に住し、儒学や風雅の道に遊びま

石碑 森川許六墓所

森川許六は、明暦2年(1656年)8月14日の生まれ。本名を森川百仲といい、禄高300石。通称を五助、五老井・菊阿佛・無々居士を号した彦根藩士で、代々、武術指南役を務める武術の達人でした。 屋敷は、彦

石碑 中村長平屋敷跡

井伊直弼のブレーン、長野主膳の門人に中村長平という町人がいました。 油屋という屋号の郷宿を業としていました。安政元年(1854年)、長平19才の時、長野主膳義言の歌学及び国学の家塾『桃廼舎』に入門しま

石碑 伝馬町高札場跡

中央商店街の通りから少し入った、蓮華寺の角に、昔、高札場がありました。 高札場には、高さ4.2mの屋根組の下に、幕府から出された法令を記した駒形の大きな木札(高札)が掲げられていました。 伝馬町の馬持

石碑 巡礼街道

巡礼街道は彦根だけではなく大津市の寺辺から岩間山へ行く道から千町から滋賀大学教育学部の裏門の前を通って寺辺町に抜け石山寺門前に出る道、近江八幡市の長命寺、 安土の観音正寺への道程等、現在の県道大津能登

石碑 石田三成屋敷跡

佐和山の麓に、石田三成屋敷跡の石碑があります。 天正18年(1590年)に佐和山城の主となった三成の時代には本丸以外にも二の丸、三の丸などができており、山の下に作られた二重の堀の内側には侍屋敷や足軽屋

歌碑 井伊直弼大老歌碑

「いろは松」のすぐ近くに井伊直弼の歌碑が建てられています。 安政7年(1860年)正月。直弼は正装姿の自画像を狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、井伊家菩提寺の清凉寺に納めたと伝えられていま

石碑 井伊水軍水主町跡

松原村は 1937年(昭和12年)の市制施行に伴い彦根市に合併されるまでは、「犬上郡松原村」として独立した集落でした。 松原村には、1931年(昭和6年)当時、18の字があり、そのうち、水主町は井伊氏

石碑 扇塚

芹川のすぐ近く、旭森公園の隣に神社があり、扇塚の石碑が残されています。 能楽喜多流(北流)は、江戸時代に彦根藩の手厚い保護を受け、この地で発展しました。9代目家元、健志斎古能(号湖遊)は隠居したのち、

石碑 回転橋跡

大正9年から昭和2年にかけて彦根港湾が改修整備されました。その港は、ここから東側約700間(1,300m)の城堀を利用した運河となり、松原橋は船の就航に合わせ、当時としても珍しい回転橋となりました。橋

歌碑 万葉歌碑

JR彦根駅の東口を出て右側に少し歩くと歌碑があります。 歌碑には「淡海路(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉(いさや)川 日(け)のころごろは 恋(こ)ひつつもあらむ」とあります。 第37代の

歌碑 万葉歌碑

旧中山道の芹川にかかる橋、大堀山の麓に歌碑があります。 大堀橋から、大堀山の麓を見ると、石碑が2つあります。 一つは「鳥籠山(とこのやま)(大堀山) 不知哉川(いさやがわ)(芹川)」と刻んだ石碑。 も

句碑 中山道 旧跡 床の山

旧中山道沿いの旭森公園のフェンスわきに石碑があります。 表には「旧中山道 旧跡 床の山」とありますが、向かって左側側面に句があります。 「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」 鳥籠山につきましては諸

句碑 祇川 白髪塚

中山道沿いにある原八幡神社の鳥居の脇に小さな石碑が残されています。 また、鳥居をくぐり奥へ進むと句碑があります。 「恥ながら残す白髪や秋の風」 聖徳太子と守屋との戦い等、幾多の戦の将士達をあわれみ

句碑 芭蕉 昼寝塚

中山道沿いにある原八幡神社の鳥居の脇に小さな石碑があります。 さらに、鳥居をくぐり、奥へ進むと句碑があります。 「ひるかおにひるねせうものとこのやま」 俳聖松尾芭蕉が中山道を往来する旅人が夏の暑い

石碑 中山道・彦根道分岐道標

旧中山道鳥居本宿の南端近く、中山道が彦根道と交わる地点の南西隅に設けられている道標です。 幅・奥行きとも25.5cm、高さが124.5cmの角柱状で、上端はやや丸く納めています。石材は花崗岩。細長い4

井伊直政公像

井伊直政は戦国時代の武将・大名で上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主です。 徳川氏の家臣で江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎

石碑 遠城謙道師の碑

遠城謙道は、旧彦根藩士で文政6年(1823年)に彦根で生まれました。 15歳で鉄砲隊に入りますが、藩医・堀田道策に医術を学んだのを始め、儒学や画を学ぶなどして、特に禅の修行を積んだことで武士の魂を磨き

石碑 彦根盲訓院跡

滋賀県立盲学校は現在、 彦根市西今町にありますが、彦根での視覚障害者教育は、明治41年(1908年)、山本清一郎が彦根町に「訓盲院」を設けたことに始まります。 山本清一郎は、明治13年(1880年)、

石碑 長野伊豆屋敷跡

彦根東高校正門の前に長野伊豆屋敷跡の石碑があります。 長野伊豆は、彦根藩の家老として藩政発展に尽力しました。井伊直弼のブレーンとして有名な「長野主膳」とよく間違われますが、別人です。

石碑 岡本黄石屋敷跡

彦根西中学校の近くに家老岡本黄石屋敷跡の碑が建っています。 岡本黄石は詩文に秀で、桜田門外の変で井伊直弼が倒れた後、長野主膳と宇津木六之丞を斬刑に処して藩政を主導し、藩を勤王に転じさせ、幼少の藩主・直

石碑 木俣屋敷跡

木俣守勝は旧彦根藩の筆頭家老でした。もとは明智光秀の家臣でしたが、軍功が目覚ましく、徳川家康に見いだされ、彦根藩に仕えました。

石碑 井伊直弼生誕地

開国の英傑・井伊直弼は1815年10月29日に父・直中の14男として楽々園で生まれました。 楽々園前に「井伊直弼生誕地」の石碑が立てられています。

石碑 切通口御門跡

彦根城の外堀には7つの口が開いていました。 切通口御門は、藩主の井伊家が参勤交代の際に通る特別な門だったといわれいます。石垣の上には櫓があったと考えられ、本丸表口の太鼓門櫓(国重要文化財)とほぼ同様の

石碑 朝鮮人街道

朝鮮人街道は、野洲の行畑(現在は小篠原)で中山道から分岐し、琵琶湖近くを通り、近江八幡や東近江を経て彦根で再び合流します。その名は江戸時代、外国使節団である朝鮮通信使が現:ソウルから江戸まで訪れる際に

石碑 油屋口御門跡

彦根城の外堀には7つの口が開いていました。 油屋口御門は、現在の彦根商工会議所のあたりにありました。

石碑 本町口御門跡

彦根城の外堀には7つの口が開いていました。 本町口御門は、外堀より城内へ入る御門で、本町御門は最も重要な御門の一つでした。

石碑 高宮口御門跡

彦根城の外堀には7つの口が開いていました。 高宮口御門は、中山道の高宮方面から彦根城下に入る「彦根道」に通じるとともに、朝鮮人街道にもつながる重要な口でした。また高宮口を入り、北の切通口まで城下町をま

石碑 森川許六屋敷跡

森川許六は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲。旧彦根藩の藩士で、絵師でもあった。 市内には墓所や句碑などが点在し、また、龍潭寺には森川許六が描いた襖絵があります。

石碑 井伊直憲公顕彰碑

井伊直憲は、大老・井伊直弼の嫡子です。萬延元年(1860年)、桜田門外の変で父・直弼が非業の死を遂げた後を受け、直憲は弱冠13歳で旧彦根藩最後の藩主となりました。 就任当初は従前どおり幕府譜代大名筆頭

石碑 旭の森 石碑

旭森小学校の西側に「旭の森」と書かれた石碑があります。 大正6年(1917年)11月14日から、湖東地方いったいに陸軍の特別大演習というのがありました。 その時、大正天皇が彦根に来られ、その演習の様子

歌碑 琵琶湖周航の歌 歌碑

琵琶湖周航の歌の5番に登場する彦根。 1~6番の歌碑のうち最後にできた歌碑で、平成17年に設立されました。 5番の歌詞を見ると、作詞者の小口太郎ら旧制第三高等学校(現・京大)ボート部のメンバーが周航中

石碑 小野小町塚

小野小町の父親とされる小野小町塚小野美実(好美)が都から出羽国(現在の秋田県、山形県)へ赴任する途中に小野宿(滋賀県彦根市)で宿泊した際、宿所にいた赤ん坊があまりにも可愛かったため、養女として迎えたと

井伊直弼大老像

金亀児童公園内に、大老井伊直弼公の銅像が建てられています。 井伊直弼は、11代藩主直中の14男として生まれました。 安政5年(1858年)4月、幕府の大老となった直弼は同年6月「日米修好通商条約」に調

石碑 湖東焼窯跡

佐和山の麓、近江鉄道本線が走るトンネルを彦根側に出た西側一帯に湖東焼の窯跡が残っています。 湖東焼は江戸時代後期、文政12年(1829年)、彦根の商人絹屋半兵衛が、当時先端技術の華であった磁器の焼成導

石川千代松像

彦根旧港湾のほとりに、石川千代松博士の銅像が建てられています。 石川千代松(1861〜1935年)は、琵琶湖に産する小鮎は鮎が湖内に封じ込められてできたた生態学上にいう陸封現象の所産であって、鮎と別種

義言地蔵(長野義言牢屋・処刑跡)

城町郵便局の前に義言地蔵尊がひっそり佇んでいます。ここに祀られた長野主膳義言(ながのしゅぜんよしとき)は井伊直弼の腹心として幕末政治に活躍しましたが、直弼亡き後は、藩論も尊皇攘夷に転換する中、直弼の頭

石碑 花の生涯記念碑

世情騒然たる幕末に、開国の英断を下した大老井伊直弼の波乱に富んだ一生を描いた「花の生涯」(作者:舟橋聖一=彦根名誉市民第一号)が発表され、人々に深い感銘を与え、映画・演劇として、またNHK大河ドラマを

石碑 長野主膳義言屋敷跡

井伊直弼の片腕として活躍した長野主膳。埋木舎時代には国学の師として、そして藩主・大老時代には優秀なブレーンとして直弼政権を支えました。その長野主膳の屋敷跡が彦根市立花町にあります。 現在は駐車場となっ

彦根市荒神山自然の家

彦根市荒神山自然の家は、美しい緑、清らかな光、澄んだ空気、自然の魅力が溢れる荒神山で、団体での宿泊や体験活動を通じて、心身共に健全な成長をはかることを目的とした施設です。

彦根市荒神山公園

彦根市荒神山公園は、荒神山の麓にある自然に囲まれた緑あふれる公園です。 園内には、遊具広場や競技施設など、遊べる施設が盛りだくさん! 市街地の喧噪から離れた荒神山公園で、のんびりとした一日を過ごしませ

彦根市金亀公園

彦根市金亀公園は、国宝・彦根城や名勝・玄宮園の直ぐ近くに立地し、歴史を感じることができる公園です。 園内には、大型遊具や競技施設などもあり、休日は多くの人で賑わいます。

彦根市子どもセンター

次世代育成支援の拠点として、子育て支援と青少年健全育成のために、乳幼児から18歳までの子どもたちの健やかな成長を支援する施設です。

彦根市庄堺公園

芝生広場、バラ園、花しょうぶ園などがあります。バラは、24種類 約1,200本が植えられ、毎年5月下旬頃より見頃を迎えます。花しょうぶは、28種類 約3,000本が植えられ、6月中旬頃より見頃を迎えま

石碑 明治天皇摺針峠御小休所

江戸時代、磨針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていました。 峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら「するはり餅」に舌鼓を打ったと言われています。 参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の

石碑 明治天皇鳥居本御小休所

鳥居本宿の有川家住宅の隣に石碑があります。 有川家住宅の右手の建物は明治11年の明治天皇北陸巡幸の時に増築され、10月の11日と21日に休憩所となりました。

石碑 明治天皇行在聖跡

中山道沿いの高宮宿の中ほどに圓照寺の山門があり、その前に明治天皇行在聖跡の大きな碑があります。 慶長19年(1614年)、徳川家康は佐和山から永原寺へ向かう途中、ここ圓照寺で休息しました。現在「家康公

石碑 中山道・彦根道(大堀町)

彦根道は、高宮宿の北隣に位置する大堀村で中山道を西に折れ、七曲りを経て橋向町で朝鮮人街道に合流する道であり、彦根城外堀の高宮口御門に至ります。彦根から高宮へ抜ける道であることから、高宮道とも呼ばれまし

中山道 松並木

彦根市には中山道が通り、江戸から数えて67次の63番目にあたる鳥居本宿と、次の高宮宿の2つの旧宿場町がありました。 高宮宿の南、葛籠町には松並木が残り、往時を偲べます。

若宮八幡宮(産の宮)

中山道沿いに、足利義詮の伝説の「産の宮」があります。 南北朝の争乱の頃、足利尊氏の子義詮が、文和四年後光厳天皇を奉して西江州に戦い、湖北を経て大垣を平定し、翌五年京都に帰ることになりました。その時、義

石碑 博習学校跡

明治政府の学制頒布により、明治7年(1874年)9月、葛籠町、西葛籠町、出町の子どもたちの学び舎として、小玉氏家屋において開校されました。 明治19年11月に簡易科葛籠町小学校と改称。明治22年11月

石碑 松雨亭跡

松雨亭は、石碑より約70m西にあったとされ、1719年頃に開塾したと伝えられています。 澤村琴所(1686年〜1739年)。名は維顕。琴所は号。 父は彦根藩士・澤村左平太。14歳で彦根藩主・直道公の近

葛籠北遺跡

彦根市立彦根中学校が昭和60年(1985年)に建設される際、古墳時代の十基の古墳と三基の木棺墓、奈良時代の堀立柱建物跡三棟などがこの地で発見されました。

登録有形文化財 成宮家住宅主屋

中山道鳥居本宿に西面して建つ町屋で、木造平屋一部二階建てで上部を漆喰塗り込みとして虫籠窓を穿ちます。内部は南寄りを通土間とし、床上部は手前よりイマなどを並べる。正面の出格子を駒寄せで囲い、土間入口にト

市指定文化財 馬場家住宅

馬場家住宅は、旧中山道高宮宿の北よりにある高宮神社の参道南側に位置しています。 馬場家には「馬場家古文書」と称される大量の史料が伝来しており、商家としての歴史的推移を追認することができます。それによる

句碑 松尾芭蕉 句碑

高宮宿の高宮神社随身門横の笠砂園内に松尾芭蕉の句碑があります。 「をりをりに 伊吹をみてや 冬籠」 この句は元禄4年、芭蕉が48歳、冬の作といわれ、芭蕉門弟で千川亭の兄弟の堂に泊まって詠んだ句。

高宮宿 脇本陣跡

江戸時代、高宮宿には二軒の脇本陣があり、その一つがこの地に置かれました。 門構えで玄関があり、間口が約8間、建坪が約74坪であったとされています。門前は領主の禁令などを掲示する高札場になっていました。

鳥居本宿 脇本陣跡

鳥居本宿には脇本陣が二軒ありましたが、本陣前の脇本陣は早くに消滅し、問屋を兼ねた高橋家の様子は、上田道三氏の絵画に残されています。 それによると、間口のうち左三分の一ほどに塀があり、その中央の棟門は脇

登録有形文化財 百々家住宅主屋

鳥居本町は江戸時代を通じて中山道の宿場町として栄えた町です。参勤交代制度の確立する寛永年間(1624年〜1644年)には宿駅の拡充整備が図られ、旧鳥居本村に新たに上矢倉村・西法寺村・百々村が加わって、

登録有形文化財 不破家住宅主屋

旧高宮宿で通りに西面する入母屋造妻入の二階建ての建築です。 平面は右手に幅広の土間を通し、左手に四室ずつ二列に並びます。良材を用いた譜請で座敷飾も上質です。塗り込みの外部に柱形などを表し、正面開口部に

句碑 森川許六 句碑(五老井跡)

芭蕉高弟の森川許六の別荘跡です。 旧中山道から位左谷川を渡ると東海道新幹線高架があり正面は墓苑ですが、高架下を通り抜け左の墓地管理事務所が奥にあります。 句碑は、彦根藩士・谷鉄臣の筆によるもので、

無賃橋

高宮宿の端を流れる犬上川に橋がかかっています。 天保のはじめ、彦根藩は増水時の「川止め」で川を渡れなくなるのを解消するため、この地の富豪の藤野四郎兵衛・小林吟右衛門・馬場利左衛門らに命じて費用を広く一

句碑 松尾芭蕉 紙子塚

高宮宿のちょうど真ん中あたりに句碑があります。 「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」 貞享元年(1684年)の冬、縁あってこの家の主の許しで一泊した俳人の松尾芭蕉は、自分が横になっている姿の絵を描

句碑 尚白 句碑

「みちばたに 多賀の鳥居の 寒さかな」 尚白は江戸前期の俳人。大津の医者で松尾芭蕉の高弟です。 姓は江左。字(あざな)は三益。近江大津の人で医を業としました。はじめ貞門・談林の俳諧を学びましたが、貞

登録有形文化財 加藤家住宅(旧布惣)主屋

中山道高宮宿の中心部に建つ元麻布商で、街道に西面して建っています。 木造2階建て。桁行が16.6m、梁間が12.4m、切妻造瓦葺。 前面を店舗、背面を田の字型の床上部とし、正面は海老虹梁状の腕木や二階

県指定文化財 多賀大社 一の鳥居

多賀大社から西方約4キロメートルの表参道に面して位置する石造明神鳥居は、同社の旧境界域を示しています。 多賀大社の創立は、奈良時代に完成した「古事記」や平安時代に編纂された「延喜式」にも見られます。

高宮宿 本陣跡

高宮宿は、中山道の64番目の宿場町で、現在は滋賀県彦根市高宮町になります。 江戸時代の参勤交代により、大名が泊まる施設として各宿場に設けたのが本陣です。 構造も武家風で、玄関・式台を構え、次座敷・次の

石碑 扇塚

芹川のすぐ近く、旭森公園の隣に神社があり、扇塚の石碑が残されています。 能楽喜多流(北流)は、江戸時代に彦根藩の手厚い保護を受け、この地で発展しました。9代目家元、健志斎古能(号湖遊)は隠居したのち、

句碑 中山道 旧跡 床の山

旧中山道沿いの旭森公園のフェンスわきに石碑があります。 表には「旧中山道 旧跡 床の山」とありますが、向かって左側側面に句があります。 「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」 鳥籠山につきましては諸

句碑 祇川 白髪塚

中山道沿いにある原八幡神社の鳥居の脇に小さな石碑が残されています。 また、鳥居をくぐり奥へ進むと句碑があります。 「恥ながら残す白髪や秋の風」 聖徳太子と守屋との戦い等、幾多の戦の将士達をあわれみ

句碑 芭蕉 昼寝塚

中山道沿いにある原八幡神社の鳥居の脇に小さな石碑があります。 さらに、鳥居をくぐり、奥へ進むと句碑があります。 「ひるかおにひるねせうものとこのやま」 俳聖松尾芭蕉が中山道を往来する旅人が夏の暑い

石碑 中山道・彦根道分岐道標

旧中山道鳥居本宿の南端近く、中山道が彦根道と交わる地点の南西隅に設けられている道標です。 幅・奥行きとも25.5cm、高さが124.5cmの角柱状で、上端はやや丸く納めています。石材は花崗岩。細長い4

景観重要建造物 岩根家住宅

鳥居本町は、彦根市の北部に位置し、江戸時代には鳥居本宿として中山道の宿場町として栄えました。天保14年(1843年)の時点で家数は293軒、人口は1448人で35軒の旅籠があったとされています。南では

ヴォーリズ建築 寺村家住宅主屋

鳥居本本宿の本陣を代々務めた寺村家は、観音寺城六角氏の配下にありました。六角氏滅亡後、小野宿の本陣役を務めました。佐和山城落城後、小野宿は廃止され、慶長8年(1603年)鳥居本に宿場が移ると、鳥居本宿

景観重要建造物 有川家住宅主屋

有川家住宅は、旧中山道鳥居本宿の北端近く、街道が大きく鉤手に曲がるところに位置しています。 今日も名産「赤玉神教丸」を製造・販売する店舗です。赤玉神教丸は下痢・腹痛・食傷などに効果のある妙薬で、多賀大

登録有形文化財 近江鉄道 鳥居本駅舎

明治29年(1896年)に彦根-貴生川間の区間で近江鉄道は開業しました。昭和6年(1931年)には彦根-米原間が開通し、同時に鳥居本駅舎も建設されました。 その後、建て替えらえましたが、山小屋風な腰折

石碑 旭の森 石碑

旭森小学校の西側に「旭の森」と書かれた石碑があります。 大正6年(1917年)11月14日から、湖東地方いったいに陸軍の特別大演習というのがありました。 その時、大正天皇が彦根に来られ、その演習の様子

石碑 小野小町塚

小野小町の父親とされる小野小町塚小野美実(好美)が都から出羽国(現在の秋田県、山形県)へ赴任する途中に小野宿(滋賀県彦根市)で宿泊した際、宿所にいた赤ん坊があまりにも可愛かったため、養女として迎えたと

高宮城跡

高宮は古代犬上郡十郷の1つで、高宮郷の地です。 中世には荘園(高宮荘・高宮保)が成立し、東山道筋には市も立っていました。当時、高宮を領した高宮氏には2系統がありました。1系統は鎌倉時代末に当地へ地頭と

中山道 高宮宿

中山道高宮宿は、中山道六十九次(東海道の草津、大津を含む)のうち江戸から六十四番目の宿場町になります。 天保14年(1843)の記録によれば、町の南北の長さ七町十六間(約800m)総戸数835軒、人口

中山道 鳥居本宿

中山道鳥居本宿は、中山道六十九次(東海道の草津、大津を含む)のうち江戸から数えて六十三番目の宿場町になります。徳川家康が慶長7年(1602)中山道を整備した時は一旦小野宿に宿継を命じています。その後彦

中山道 摺針峠

中山道は、鳥居本の宿場町から山道を登って江戸へ下っていきました。山道を曲がると急に視界が開け、この峠から眺める琵琶湖や湖東平野の眺めは最高だったといわれています。 摺針峠には、弘法大師にちなむ逸話が残