歌碑 万葉歌碑

旧中山道の芹川にかかる橋、大堀山の麓に歌碑があります。 大堀橋から、大堀山の麓を見ると、石碑が2つあります。 一つは「鳥籠山(とこのやま)(大堀山) 不知哉川(いさやがわ)(芹川)」と刻んだ石碑。 も

歌碑 万葉歌碑

JR彦根駅の東口を出て右側に少し歩くと歌碑があります。 歌碑には「淡海路(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉(いさや)川 日(け)のころごろは 恋(こ)ひつつもあらむ」とあります。 第37代の

歌碑 万葉歌碑

元号「令和」の出典となった万葉集。その万葉集は現存する日本最古の歌集で、収録されている約4,500首のうち、滋賀県を背景に詠まれた和歌は約108首あります。近江の風景が人々の心に深く刻まれていたことが

句碑 与謝蕪村 句碑

「鮒ずしや 彦根の城に 雲かかる」 彦根城内の天秤櫓前の廊下橋の脇に与謝蕪村(1716年~1783年)の句碑があります。 鮒ずしは日本三大珍味の一つであり近江を代表する郷土料理です。

句碑 中山道 旧跡 床の山

旧中山道沿いの旭森公園のフェンスわきに石碑があります。 表には「旧中山道 旧跡 床の山」とありますが、向かって左側側面に句があります。 「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」 鳥籠山につきましては諸

石碑 中山道・北国街道分岐道標

滋賀県は東日本と西日本の中間に位置しているため、古来より日本を代表する交通の要所でした。 近江から北陸へ向かう道は、琵琶湖の西岸を通る西近江路と東岸を通る東近江路があり、西近江路を北陸道と呼び、東近江

石碑 中山道・彦根道(大堀町)

彦根道は、高宮宿の北隣に位置する大堀村で中山道を西に折れ、七曲りを経て橋向町で朝鮮人街道に合流する道であり、彦根城外堀の高宮口御門に至ります。彦根から高宮へ抜ける道であることから、高宮道とも呼ばれまし

石碑 中山道・彦根道分岐道標

旧中山道鳥居本宿の南端近く、中山道が彦根道と交わる地点の南西隅に設けられている道標です。 幅・奥行きとも25.5cm、高さが124.5cmの角柱状で、上端はやや丸く納めています。石材は花崗岩。細長い4

石碑 中村不能斎屋敷跡

中村不能斎は彦根藩の儒学者で「彦根山由来記」の著者として有名です。

石碑 中村長平屋敷跡

井伊直弼のブレーン、長野主膳の門人に中村長平という町人がいました。 油屋という屋号の郷宿を業としていました。安政元年(1854年)、長平19才の時、長野主膳義言の歌学及び国学の家塾『桃廼舎』に入門しま

石碑 久左の辻

銀座商店街の入口に石碑があります。 江戸時代に彦根藩の御用商人であった近藤久左衛門がこの地一帯を所有していたが、没落後当地に名称のみが残ったとされています。

歌碑 井伊文子氏歌碑

「一身に責負ひまして、立ちましし、大老ありてこそ、開港はなりぬ」 井伊大老像前の歌碑は、明治100年にあたる1968年、彦根市と水戸市を親善都市として提携させた井伊直弼の曽孫で当時の彦根市長・井伊直

歌碑 井伊文子氏歌碑

「川波の 渦の底ひに 身を沈め 祈りは永久の 安らけきなむ」 昔、犬上川がよく決壊したために、人柱として庄屋の娘の「おまるさん」を生き埋めにしたという伝説「まるどの堤」があります。 彦根市甘呂町の集

石碑 井伊水軍水主町跡

松原村は 1937年(昭和12年)の市制施行に伴い彦根市に合併されるまでは、「犬上郡松原村」として独立した集落でした。 松原村には、1931年(昭和6年)当時、18の字があり、そのうち、水主町は井伊氏

井伊直弼大老像

金亀児童公園内に、大老井伊直弼公の銅像が建てられています。 井伊直弼は、11代藩主直中の14男として生まれました。 安政5年(1858年)4月、幕府の大老となった直弼は同年6月「日米修好通商条約」に調

歌碑 井伊直弼大老歌碑

「いろは松」のすぐ近くに井伊直弼の歌碑が建てられています。 安政7年(1860年)正月。直弼は正装姿の自画像を狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、井伊家菩提寺の清凉寺に納めたと伝えられていま

石碑 井伊直弼生誕地

開国の英傑・井伊直弼は1815年10月29日に父・直中の14男として楽々園で生まれました。 楽々園前に「井伊直弼生誕地」の石碑が立てられています。

石碑 井伊直憲公顕彰碑

井伊直憲は、大老・井伊直弼の嫡子です。萬延元年(1860年)、桜田門外の変で父・直弼が非業の死を遂げた後を受け、直憲は弱冠13歳で旧彦根藩最後の藩主となりました。 就任当初は従前どおり幕府譜代大名筆頭

井伊直政公像

井伊直政は戦国時代の武将・大名で上野国高崎藩の初代藩主。後に近江国佐和山藩(彦根藩)の初代藩主です。 徳川氏の家臣で江戸時代に譜代大名の筆頭として、江戸幕府を支えた井伊氏の手本となり、現在の群馬県高崎

石碑 伝馬町高札場跡

中央商店街の通りから少し入った、蓮華寺の角に、昔、高札場がありました。 高札場には、高さ4.2mの屋根組の下に、幕府から出された法令を記した駒形の大きな木札(高札)が掲げられていました。 伝馬町の馬持

句碑 冶天 句碑

荒神山の麓にある千手寺山門前に、旧彦根藩の俳人・森川許六の弟子である冶天の句碑があります。 冶天は、旧彦根藩の俳人で、芭蕉十哲の一人としても名高い森川許六のあとを継いで彦根蕉門道統三世となった森野冶天

石碑 切通口御門跡

彦根城の外堀には7つの口が開いていました。 切通口御門は、藩主の井伊家が参勤交代の際に通る特別な門だったといわれいます。石垣の上には櫓があったと考えられ、本丸表口の太鼓門櫓(国重要文化財)とほぼ同様の

石碑 博習学校跡

明治政府の学制頒布により、明治7年(1874年)9月、葛籠町、西葛籠町、出町の子どもたちの学び舎として、小玉氏家屋において開校されました。 明治19年11月に簡易科葛籠町小学校と改称。明治22年11月

石碑 回転橋跡

大正9年から昭和2年にかけて彦根港湾が改修整備されました。その港は、ここから東側約700間(1,300m)の城堀を利用した運河となり、松原橋は船の就航に合わせ、当時としても珍しい回転橋となりました。橋