彦根市内の観光施設や観光スポットをご案内します。また、彦根周辺のおすすめスポットも。
旧中山道鳥居本宿の南端近く、中山道が彦根道と交わる地点の南西隅に設けられている道標です。 幅・奥行きとも25.5cm、高さが124.5cmの角柱状で、上端はやや丸く納めています。石材は花崗岩。細長い4
中山道沿いにある原八幡神社の鳥居の脇に小さな石碑があります。 さらに、鳥居をくぐり、奥へ進むと句碑があります。 「ひるかおにひるねせうものとこのやま」 俳聖松尾芭蕉が中山道を往来する旅人が夏の暑い
中山道沿いにある原八幡神社の鳥居の脇に小さな石碑が残されています。 また、鳥居をくぐり奥へ進むと句碑があります。 「恥ながら残す白髪や秋の風」 聖徳太子と守屋との戦い等、幾多の戦の将士達をあわれみ
旧中山道沿いの旭森公園のフェンスわきに石碑があります。 表には「旧中山道 旧跡 床の山」とありますが、向かって左側側面に句があります。 「ひるがおに 昼寝せうもの 床の山」 鳥籠山につきましては諸
旧中山道の芹川にかかる橋、大堀山の麓に歌碑があります。 大堀橋から、大堀山の麓を見ると、石碑が2つあります。 一つは「鳥籠山(とこのやま)(大堀山) 不知哉川(いさやがわ)(芹川)」と刻んだ石碑。 も
JR彦根駅の東口を出て右側に少し歩くと歌碑があります。 歌碑には「淡海路(あふみぢ)の 鳥籠(とこ)の山なる 不知哉(いさや)川 日(け)のころごろは 恋(こ)ひつつもあらむ」とあります。 第37代の
大正9年から昭和2年にかけて彦根港湾が改修整備されました。その港は、ここから東側約700間(1,300m)の城堀を利用した運河となり、松原橋は船の就航に合わせ、当時としても珍しい回転橋となりました。橋
芹川のすぐ近く、旭森公園の隣に神社があり、扇塚の石碑が残されています。 能楽喜多流(北流)は、江戸時代に彦根藩の手厚い保護を受け、この地で発展しました。9代目家元、健志斎古能(号湖遊)は隠居したのち、
松原村は 1937年(昭和12年)の市制施行に伴い彦根市に合併されるまでは、「犬上郡松原村」として独立した集落でした。 松原村には、1931年(昭和6年)当時、18の字があり、そのうち、水主町は井伊氏
「いろは松」のすぐ近くに井伊直弼の歌碑が建てられています。 安政7年(1860年)正月。直弼は正装姿の自画像を狩野永岳に描かせ、この自詠の和歌を書き添えて、井伊家菩提寺の清凉寺に納めたと伝えられていま
佐和山の麓に、石田三成屋敷跡の石碑があります。 天正18年(1590年)に佐和山城の主となった三成の時代には本丸以外にも二の丸、三の丸などができており、山の下に作られた二重の堀の内側には侍屋敷や足軽屋
巡礼街道は彦根だけではなく大津市の寺辺から岩間山へ行く道から千町から滋賀大学教育学部の裏門の前を通って寺辺町に抜け石山寺門前に出る道、近江八幡市の長命寺、 安土の観音正寺への道程等、現在の県道大津能登
中央商店街の通りから少し入った、蓮華寺の角に、昔、高札場がありました。 高札場には、高さ4.2mの屋根組の下に、幕府から出された法令を記した駒形の大きな木札(高札)が掲げられていました。 伝馬町の馬持
井伊直弼のブレーン、長野主膳の門人に中村長平という町人がいました。 油屋という屋号の郷宿を業としていました。安政元年(1854年)、長平19才の時、長野主膳義言の歌学及び国学の家塾『桃廼舎』に入門しま
森川許六は、明暦2年(1656年)8月14日の生まれ。本名を森川百仲といい、禄高300石。通称を五助、五老井・菊阿佛・無々居士を号した彦根藩士で、代々、武術指南役を務める武術の達人でした。 屋敷は、彦
谷鉄臣は、文政5年(1822)に、京町3丁目で渋谷家の長男として生まれました。名は騮太郎といいました。幕末・明治の彦根藩士・医者。字は百錬、号は大湖・如意山人。 17歳のときから、彦根へ帰ってくる27
通称「百間橋」は、当時佐和山城の西に広がっていた松原内湖にクランク状に架けられた通路のうち、松原側(琵琶湖側)に設けられた木橋のことで、古絵図などの記録から幅三間(約5.4m)、総延長三百間(約540
中村不能斎は彦根藩の儒学者で「彦根山由来記」の著者として有名です。国史・国学を研究し、藩に残されている多くの資料の中から値打ちのあるものを見分ける力があり、筆写した書物が身長の3倍以上にもなったと言わ
近江鉄道の敷設に深く関与し、近江鉄道の初代社長に就任した大東義徹は、彦根藩士で足軽の小西貞徹の次男として天保12年(1841)に生まれました。 幼名を寛蔵。戊辰戦争に従軍し武功を立てます。戸籍編成の際
大久保忠隣は、松平家の重臣・大久保忠世の長男として三河(愛知県岡崎市)にて1553年に生まれました。 1563年から近習として仕えるようになり、1568年の遠江・堀川城攻めにて初陣を飾り、敵将の首をと
「みちばたに 多賀の鳥居の 寒さかな」 尚白は江戸前期の俳人。大津の医者で松尾芭蕉の高弟です。 姓は江左。字(あざな)は三益。近江大津の人で医を業としました。はじめ貞門・談林の俳諧を学びましたが、貞
高宮宿のちょうど真ん中あたりに句碑があります。 「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」 貞享元年(1684年)の冬、縁あってこの家の主の許しで一泊した俳人の松尾芭蕉は、自分が横になっている姿の絵を描
竹ヶ鼻遺跡は、彦根市竹ヶ鼻農住組合の土地区画整理事業に伴い、平成8年に彦根市教育委員会が発掘調査を行いました。
芭蕉高弟の森川許六の別荘跡です。 旧中山道から位左谷川を渡ると東海道新幹線高架があり正面は墓苑ですが、高架下を通り抜け左の墓地管理事務所が奥にあります。 句碑は、彦根藩士・谷鉄臣の筆によるもので、
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