句碑 松尾芭蕉 句碑

高宮宿の高宮神社随身門横の笠砂園内に松尾芭蕉の句碑があります。 「をりをりに 伊吹をみてや 冬籠」 この句は元禄4年、芭蕉が48歳、冬の作といわれ、芭蕉門弟で千川亭の兄弟の堂に泊まって詠んだ句。

句碑 松尾芭蕉 句碑

芭蕉は1691年秋に大津から江戸に向かう途中で明照寺に立ち寄りました。 寺院内の池泉回遊式庭園には李由の手植えの梅があります。芭蕉は庭園を鑑賞しながら 「百歳の 気色を庭の 落葉かな」という句を詠んで

石碑 松尾芭蕉 笠塚

元禄4年10月、明照寺を訪れた芭蕉は愛弟子李由に形見として与えた桧笠を埋めて笠塚としました。

句碑 李由 句碑

「乞食の事 言うて寝る 夜の雪」 『韻塞』(李由・許六共編)に収録されています。 李由は、本名を河野通賢といいます。明照寺第十四世亮隅は号を李由と稱し、芭蕉の高弟です。現在の荘厳な本堂は李由の手に依

句碑 与謝蕪村 句碑

「鮒ずしや 彦根の城に 雲かかる」 彦根城内の天秤櫓前の廊下橋の脇に与謝蕪村(1716年~1783年)の句碑があります。 鮒ずしは日本三大珍味の一つであり近江を代表する郷土料理です。

石碑 米惣騒動百姓一揆跡

「米惣」とは米屋惣七のこと。明治3年(1870年)、彦根は悪天候が続き米も不作でした。その上、台風が直撃し堤防が決壊したため、家々が押し流されました。「米惣が池に汚物を投げ込んだから、池の龍が怒った。

石碑 久左の辻

銀座商店街の入口に石碑があります。 江戸時代に彦根藩の御用商人であった近藤久左衛門がこの地一帯を所有していたが、没落後当地に名称のみが残ったとされています。

葛籠北遺跡

彦根市立彦根中学校が昭和60年(1985年)に建設される際、古墳時代の十基の古墳と三基の木棺墓、奈良時代の堀立柱建物跡三棟などがこの地で発見されました。

石碑 松雨亭跡

松雨亭は、石碑より約70m西にあったとされ、1719年頃に開塾したと伝えられています。 澤村琴所(1686年〜1739年)。名は維顕。琴所は号。 父は彦根藩士・澤村左平太。14歳で彦根藩主・直道公の近

石碑 博習学校跡

明治政府の学制頒布により、明治7年(1874年)9月、葛籠町、西葛籠町、出町の子どもたちの学び舎として、小玉氏家屋において開校されました。 明治19年11月に簡易科葛籠町小学校と改称。明治22年11月

石碑 中山道・彦根道(大堀町)

彦根道は、高宮宿の北隣に位置する大堀村で中山道を西に折れ、七曲りを経て橋向町で朝鮮人街道に合流する道であり、彦根城外堀の高宮口御門に至ります。彦根から高宮へ抜ける道であることから、高宮道とも呼ばれまし

歌碑 万葉歌碑

元号「令和」の出典となった万葉集。その万葉集は現存する日本最古の歌集で、収録されている約4,500首のうち、滋賀県を背景に詠まれた和歌は約108首あります。近江の風景が人々の心に深く刻まれていたことが

石碑 明治天皇行在聖跡

中山道沿いの高宮宿の中ほどに圓照寺の山門があり、その前に明治天皇行在聖跡の大きな碑があります。 慶長19年(1614年)、徳川家康は佐和山から永原寺へ向かう途中、ここ圓照寺で休息しました。現在「家康公

石碑 明治天皇鳥居本御小休所

鳥居本宿の有川家住宅の隣に石碑があります。 有川家住宅の右手の建物は明治11年の明治天皇北陸巡幸の時に増築され、10月の11日と21日に休憩所となりました。

石碑 日下部鳴鶴屋敷跡

日下部鳴鶴(1838~1922)は、彦根藩士出身で、日本近代の代表的な書家です。 滋賀大学経済学部キャンパス内に屋敷跡の石碑があります。 鳴鶴は天保9年(1938)8月18日に彦根藩士の田中惣右衛門の

石碑 中山道・北国街道分岐道標

滋賀県は東日本と西日本の中間に位置しているため、古来より日本を代表する交通の要所でした。 近江から北陸へ向かう道は、琵琶湖の西岸を通る西近江路と東岸を通る東近江路があり、西近江路を北陸道と呼び、東近江

石碑 明治天皇摺針峠御小休所

江戸時代、磨針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていました。 峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら「するはり餅」に舌鼓を打ったと言われています。 参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の

石碑 肥田城水攻め堤跡

肥田城遺跡は愛知郡を流れる宇曽川の自然堤防上にある城館遺跡です。大永年間(1521~1528)の築城が伝えられています。地表面に現存する遺構はほとんどありませんが、田畑等の土地の地割り(土地の形)から

石碑 天九郎俊長淬刃之水の碑

彦根市甘呂町に「天九郎俊長淬刃之水(てんくろうとしながさいとうのみず)」という石碑があります。「淬」の漢字は「淬(にら)ぐ」とも読み「赤熱した鉄を水に入れて鍛える、焼きを入れる」という意味です。井戸に

石碑 大坂の陣供養碑

大坂の陣、冬の陣は慶長19年(1614年)、夏の陣は慶長20年(1615年)。 彦根の大洞弁財天近く、JRの線路沿いに大坂の陣で亡くなった人々の供養碑があります。大坂の陣から84年後、元禄12年(16

歌碑 木俣修顕彰歌碑

旧彦根藩城代家老・木俣氏の末裔として生まれた木俣修(1906年~1983年)は、少年時代より北原白秋氏に認められ、同氏に師事して短歌の道に歩まれ、白秋氏亡き後は、その後継者の一人として活躍されています

歌碑 井伊文子氏歌碑

「一身に責負ひまして、立ちましし、大老ありてこそ、開港はなりぬ」 井伊大老像前の歌碑は、明治100年にあたる1968年、彦根市と水戸市を親善都市として提携させた井伊直弼の曽孫で当時の彦根市長・井伊直

歌碑 井伊文子氏歌碑

「川波の 渦の底ひに 身を沈め 祈りは永久の 安らけきなむ」 昔、犬上川がよく決壊したために、人柱として庄屋の娘の「おまるさん」を生き埋めにしたという伝説「まるどの堤」があります。 彦根市甘呂町の集

石碑 琵琶湖八景 彦根の古城

琵琶湖八景は、昭和25年(1950年)、琵琶湖とその周辺が琵琶湖国定公園に指定されたのを契機に、琵琶湖の雄大さと変化に富んだ景観が選定されました。 その中の一つに、「月明かりに浮かび上がる壮麗な彦根城