彦根市内の観光施設や観光スポットをご案内します。また、彦根周辺のおすすめスポットも。
彦留神社本殿は、滋賀県に多く見られる三間社流造りと呼ばれる形式の本殿で、棟札より明和3年(1766年)に建立されたことがわかります。
馬場家住宅は、旧中山道高宮宿の北よりにある高宮神社の参道南側に位置しています。 馬場家には「馬場家古文書」と称される大量の史料が伝来しており、商家としての歴史的推移を追認することができます。それによる
彦根市肥田町は、彦根市南部を流れる宇曽川の南側に位置し、湖東平野の広大な水田地帯の典型的な農村集落です。しかし、戦国時代には土豪・高野瀬氏の居城であった肥田城と密接な関係にあった集落であり、鹿島家住宅
中山道鳥居本宿に西面して建つ町屋で、木造平屋一部二階建てで上部を漆喰塗り込みとして虫籠窓を穿ちます。内部は南寄りを通土間とし、床上部は手前よりイマなどを並べる。正面の出格子を駒寄せで囲い、土間入口にト
彦根城下の足軽組屋敷は、城下町のもっとも外側に、城下を取り囲むように屋敷を連ねて彦根城と城下町を守備する役割を担っていました。彦根藩の足軽は、慶長期(〜1614年)に中藪組6組と善利組12組が設置され
吉川家住宅は、現在の城町1丁目、江戸時代には城下町の中堀と外堀の間にあった下魚屋町の町筋北側に位置しています。 下魚屋町はその町名のとおり、城下町建設当初は魚を取り扱う商業者が集住する同業者町でした。
善利組・服部家住宅は、旧芹橋12丁目のほぼ中央、旧大辻通りと旧中辻通りの間に位置しています。 主屋は間口が4間、奥行きが5間半の切妻造・桟瓦葺の中2階形式で、通りに面して妻面を見せ、表に向かって下屋を
椿居家住宅は、旧芹橋14丁目に位置しています。「御城下惣絵図」には間口4間半、奥行き10間の敷地として記されていますが、この後に南隣の屋敷を与えられ、間口10間となって現在にいたっています。
北川家住宅は、旧芹橋10丁目中ほど、表通りの東南側に位置しています。天保7年(1836年)に作成された「御城下惣絵図」では、間口が5間、奥行きが10間の敷地として描かれていますが、現在は、西隣の敷地を
善利組・林家住宅は、通りに面して格子戸と板戸からなる古様の木戸門を構え、周囲は板塀で囲まれています。 門より1間入った位置にある主屋は、間口5間、奥行き4.5間の切妻造りの桟瓦葺です。外壁および軒裏は
彦根城下の足軽屋敷は、城下町を取り囲むように屋敷を連ねており、そのうち、最も規模の大きかったのが善利組です。幕末期には約700個戸の足軽屋敷がありましたが、現在はその1割以下にまで減少しています。 吉
善利組・旧磯島家住宅は、主屋が間口が4間半、奥行きが6間の切妻造り・桟瓦葺の中二階形式で、表に向かって下屋をかけます。出入口は、門をくぐって左に前庭を見ながら「どま」より「げんかん」に入る平入です。
彦根藩には船奉行の配下に水主衆がおり、平時には船小屋番舟役として松原湊に詰め、有事には船奉行に従って水軍を構成しました。水主衆の人員は、承応3年(1654年)の55人を初見に、2代井伊直孝代50人、3
近年、彦根藩ゆかりの武家屋敷はほとんど残っていません。 とくに50石から300石の知行取(ちぎょうどり)の武家屋敷については大村家を除けば皆無に近い状況にあります。 当家は主屋とともに門や長屋も残って
妙源寺赤門は石田三成公の佐和山城法華丸の山門を移築したと伝えられています。
Facebook Twitter
〒522-0007 滋賀県彦根市古沢町40番7号 JR彦根駅構内 ☎ 0749-22-2954
〒522-0001 滋賀県彦根市尾末町1-51 ☎ 0749-23-0033
〒522-0064 滋賀県彦根市本町一丁目12番5号 ひこね街なかプラザ内 ☎ 0749-23-0001 / FAX: 0749-26-1919 滋賀県知事登録旅行業3-235号
© 2024 公益社団法人 彦根観光協会 / 彦根市観光交流課