鳥居本宿 脇本陣跡

鳥居本宿には脇本陣が二軒ありましたが、本陣前の脇本陣は早くに消滅し、問屋を兼ねた高橋家の様子は、上田道三氏の絵画に残されています。 それによると、間口のうち左三分の一ほどに塀があり、その中央の棟門は脇

高宮宿 脇本陣跡

江戸時代、高宮宿には二軒の脇本陣があり、その一つがこの地に置かれました。 門構えで玄関があり、間口が約8間、建坪が約74坪であったとされています。門前は領主の禁令などを掲示する高札場になっていました。

句碑 松尾芭蕉 句碑

高宮宿の高宮神社随身門横の笠砂園内に松尾芭蕉の句碑があります。 「をりをりに 伊吹をみてや 冬籠」 この句は元禄4年、芭蕉が48歳、冬の作といわれ、芭蕉門弟で千川亭の兄弟の堂に泊まって詠んだ句。

市指定文化財 馬場家住宅

馬場家住宅は、旧中山道高宮宿の北よりにある高宮神社の参道南側に位置しています。 馬場家には「馬場家古文書」と称される大量の史料が伝来しており、商家としての歴史的推移を追認することができます。それによる

登録有形文化財 成宮家住宅主屋

中山道鳥居本宿に西面して建つ町屋で、木造平屋一部二階建てで上部を漆喰塗り込みとして虫籠窓を穿ちます。内部は南寄りを通土間とし、床上部は手前よりイマなどを並べる。正面の出格子を駒寄せで囲い、土間入口にト

葛籠北遺跡

彦根市立彦根中学校が昭和60年(1985年)に建設される際、古墳時代の十基の古墳と三基の木棺墓、奈良時代の堀立柱建物跡三棟などがこの地で発見されました。

石碑 松雨亭跡

松雨亭は、石碑より約70m西にあったとされ、1719年頃に開塾したと伝えられています。 澤村琴所(1686年〜1739年)。名は維顕。琴所は号。 父は彦根藩士・澤村左平太。14歳で彦根藩主・直道公の近

石碑 博習学校跡

明治政府の学制頒布により、明治7年(1874年)9月、葛籠町、西葛籠町、出町の子どもたちの学び舎として、小玉氏家屋において開校されました。 明治19年11月に簡易科葛籠町小学校と改称。明治22年11月

若宮八幡宮(産の宮)

中山道沿いに、足利義詮の伝説の「産の宮」があります。 南北朝の争乱の頃、足利尊氏の子義詮が、文和四年後光厳天皇を奉して西江州に戦い、湖北を経て大垣を平定し、翌五年京都に帰ることになりました。その時、義

中山道 松並木

彦根市には中山道が通り、江戸から数えて67次の63番目にあたる鳥居本宿と、次の高宮宿の2つの旧宿場町がありました。 高宮宿の南、葛籠町には松並木が残り、往時を偲べます。

石碑 中山道・彦根道(大堀町)

彦根道は、高宮宿の北隣に位置する大堀村で中山道を西に折れ、七曲りを経て橋向町で朝鮮人街道に合流する道であり、彦根城外堀の高宮口御門に至ります。彦根から高宮へ抜ける道であることから、高宮道とも呼ばれまし

石碑 明治天皇行在聖跡

中山道沿いの高宮宿の中ほどに圓照寺の山門があり、その前に明治天皇行在聖跡の大きな碑があります。 慶長19年(1614年)、徳川家康は佐和山から永原寺へ向かう途中、ここ圓照寺で休息しました。現在「家康公

石碑 明治天皇鳥居本御小休所

鳥居本宿の有川家住宅の隣に石碑があります。 有川家住宅の右手の建物は明治11年の明治天皇北陸巡幸の時に増築され、10月の11日と21日に休憩所となりました。

石碑 明治天皇摺針峠御小休所

江戸時代、磨針峠に望湖堂という大きな茶屋が設けられていました。 峠を行き交う旅人は、ここで絶景を楽しみながら「するはり餅」に舌鼓を打ったと言われています。 参勤交代の大名や朝鮮通信使の使節、また幕末の