登録有形文化財 旧石橋家住宅西主屋

中主屋の西側に接続する建ちの低い外観の二階建てで、軒裏まで中塗りで塗り込め、中央に虫籠窓を穿ちます。屋根は切妻造浅瓦葺で、西端に袖うだつが設けられています。内部は中央に通土間をのばし、左右に居室が一列

登録有形文化財 旧石橋家住宅東主屋

通りに南面し、前面に二階建ての表屋を構え、玄関と中庭を介して住居部が建てられています。表屋は前面に出格子をたてて東端を土間とし、住居部は東寄りに土間を通し、居室は整型四間取で後方に風呂等が張り出してい

登録有形文化財 旧石橋家住宅中主屋

東主屋と西主屋の間に棟をそろえて建つ、木造平屋一部二階建て、切妻造浅瓦葺の風格ある構えを持つ町屋です。二階を漆喰塗り込みとし、袖うだつをあげています。西寄りに幅広の土間を通し、背後に広い台所が設けられ

登録有形文化財 森家住宅主屋

通りに南面する二階建ての町屋。 正面を黒漆喰で塗り込めて虫籠窓を穿ち、両袖に漆喰で縁取りした袖うだつを設け、軒先やけらばも漆喰仕上げとしています。内部は東に土間玄関を配し、居室部は手前からミセノマなど

旧彦根藩足軽組屋敷 辻番所

辻番所は間口が1間、奥行きが2間の切妻造りで、朝瓦葺の4畳余りの小さな小屋です。 足軽屋敷の辻(四つ角)に設けられ、見張り窓がついた貴重な施設として「辻番所」と呼ばれています。 辻番所は城下町への侵入

石碑 米惣騒動百姓一揆跡

「米惣」とは米屋惣七のこと。明治3年(1870年)、彦根は悪天候が続き米も不作でした。その上、台風が直撃し堤防が決壊したため、家々が押し流されました。「米惣が池に汚物を投げ込んだから、池の龍が怒った。

石碑 久左の辻

銀座商店街の入口に石碑があります。 江戸時代に彦根藩の御用商人であった近藤久左衛門がこの地一帯を所有していたが、没落後当地に名称のみが残ったとされています。

登録有形文化財 旧志賀谷住宅主屋(本町宿)

旧職人町に位置する町屋です。 木造造二階建て、切妻造浅瓦葺平入で、正面二階には袖壁が設けられています。当初は通り土間に床上部二列六室であったと考えられ、小屋は中心部を和小屋として、その前方後方に登梁を

市指定文化財 佐々木家住宅

佐々木家住宅は、芹川の南側、雨壺山の北側に位置しており、水と緑に恵まれた環境に建てられた住宅です。 もともと、日本生命の創設者で彦根市出身の弘世助三郎が別荘として建立したのが始まりです。 住宅は、彦根

県指定文化財 彦留神社本殿

彦留神社本殿は、滋賀県に多く見られる三間社流造りと呼ばれる形式の本殿で、棟札より明和3年(1766年)に建立されたことがわかります。

彦根市荒神山自然の家

彦根市荒神山自然の家は、美しい緑、清らかな光、澄んだ空気、自然の魅力が溢れる荒神山で、団体での宿泊や体験活動を通じて、心身共に健全な成長をはかることを目的とした施設です。

勝鳥神社

勝鳥神社は天稚彦命を主神とし、事代主命・大山咋命をおまつりしています。 天稚彦命が出雲国から東方へ征伐に出陣されたとき、事代主命らとともに三津に立ち寄られました。美濃の国での戦で亡くなられた天稚彦命の

市指定文化財 馬場家住宅

馬場家住宅は、旧中山道高宮宿の北よりにある高宮神社の参道南側に位置しています。 馬場家には「馬場家古文書」と称される大量の史料が伝来しており、商家としての歴史的推移を追認することができます。それによる

市指定文化財 鹿島家住宅

彦根市肥田町は、彦根市南部を流れる宇曽川の南側に位置し、湖東平野の広大な水田地帯の典型的な農村集落です。しかし、戦国時代には土豪・高野瀬氏の居城であった肥田城と密接な関係にあった集落であり、鹿島家住宅

登録有形文化財 成宮家住宅主屋

中山道鳥居本宿に西面して建つ町屋で、木造平屋一部二階建てで上部を漆喰塗り込みとして虫籠窓を穿ちます。内部は南寄りを通土間とし、床上部は手前よりイマなどを並べる。正面の出格子を駒寄せで囲い、土間入口にト

葛籠北遺跡

彦根市立彦根中学校が昭和60年(1985年)に建設される際、古墳時代の十基の古墳と三基の木棺墓、奈良時代の堀立柱建物跡三棟などがこの地で発見されました。

旧彦根藩足軽組屋敷 中藪組・瀧谷家住宅

彦根城下の足軽組屋敷は、城下町のもっとも外側に、城下を取り囲むように屋敷を連ねて彦根城と城下町を守備する役割を担っていました。彦根藩の足軽は、慶長期(〜1614年)に中藪組6組と善利組12組が設置され

市指定文化財 吉川家住宅

吉川家住宅は、現在の城町1丁目、江戸時代には城下町の中堀と外堀の間にあった下魚屋町の町筋北側に位置しています。 下魚屋町はその町名のとおり、城下町建設当初は魚を取り扱う商業者が集住する同業者町でした。

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・服部家住宅

善利組・服部家住宅は、旧芹橋12丁目のほぼ中央、旧大辻通りと旧中辻通りの間に位置しています。 主屋は間口が4間、奥行きが5間半の切妻造・桟瓦葺の中2階形式で、通りに面して妻面を見せ、表に向かって下屋を

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・椿居家住宅

椿居家住宅は、旧芹橋14丁目に位置しています。「御城下惣絵図」には間口4間半、奥行き10間の敷地として記されていますが、この後に南隣の屋敷を与えられ、間口10間となって現在にいたっています。

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・北川家住宅

北川家住宅は、旧芹橋10丁目中ほど、表通りの東南側に位置しています。天保7年(1836年)に作成された「御城下惣絵図」では、間口が5間、奥行きが10間の敷地として描かれていますが、現在は、西隣の敷地を

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・林家住宅

善利組・林家住宅は、通りに面して格子戸と板戸からなる古様の木戸門を構え、周囲は板塀で囲まれています。 門より1間入った位置にある主屋は、間口5間、奥行き4.5間の切妻造りの桟瓦葺です。外壁および軒裏は

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・吉居家住宅

彦根城下の足軽屋敷は、城下町を取り囲むように屋敷を連ねており、そのうち、最も規模の大きかったのが善利組です。幕末期には約700個戸の足軽屋敷がありましたが、現在はその1割以下にまで減少しています。 吉

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・旧磯島家住宅

善利組・旧磯島家住宅は、主屋が間口が4間半、奥行きが6間の切妻造り・桟瓦葺の中二階形式で、表に向かって下屋をかけます。出入口は、門をくぐって左に前庭を見ながら「どま」より「げんかん」に入る平入です。