登録有形文化財 成宮家住宅主屋

中山道鳥居本宿に西面して建つ町屋で、木造平屋一部二階建てで上部を漆喰塗り込みとして虫籠窓を穿ちます。内部は南寄りを通土間とし、床上部は手前よりイマなどを並べる。正面の出格子を駒寄せで囲い、土間入口にト

葛籠北遺跡

彦根市立彦根中学校が昭和60年(1985年)に建設される際、古墳時代の十基の古墳と三基の木棺墓、奈良時代の堀立柱建物跡三棟などがこの地で発見されました。

旧彦根藩足軽組屋敷 中藪組・瀧谷家住宅

彦根城下の足軽組屋敷は、城下町のもっとも外側に、城下を取り囲むように屋敷を連ねて彦根城と城下町を守備する役割を担っていました。彦根藩の足軽は、慶長期(〜1614年)に中藪組6組と善利組12組が設置され

市指定文化財 吉川家住宅

吉川家住宅は、現在の城町1丁目、江戸時代には城下町の中堀と外堀の間にあった下魚屋町の町筋北側に位置しています。 下魚屋町はその町名のとおり、城下町建設当初は魚を取り扱う商業者が集住する同業者町でした。

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・服部家住宅

善利組・服部家住宅は、旧芹橋12丁目のほぼ中央、旧大辻通りと旧中辻通りの間に位置しています。 主屋は間口が4間、奥行きが5間半の切妻造・桟瓦葺の中2階形式で、通りに面して妻面を見せ、表に向かって下屋を

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・椿居家住宅

椿居家住宅は、旧芹橋14丁目に位置しています。「御城下惣絵図」には間口4間半、奥行き10間の敷地として記されていますが、この後に南隣の屋敷を与えられ、間口10間となって現在にいたっています。

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・北川家住宅

北川家住宅は、旧芹橋10丁目中ほど、表通りの東南側に位置しています。天保7年(1836年)に作成された「御城下惣絵図」では、間口が5間、奥行きが10間の敷地として描かれていますが、現在は、西隣の敷地を

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・林家住宅

善利組・林家住宅は、通りに面して格子戸と板戸からなる古様の木戸門を構え、周囲は板塀で囲まれています。 門より1間入った位置にある主屋は、間口5間、奥行き4.5間の切妻造りの桟瓦葺です。外壁および軒裏は

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・吉居家住宅

彦根城下の足軽屋敷は、城下町を取り囲むように屋敷を連ねており、そのうち、最も規模の大きかったのが善利組です。幕末期には約700個戸の足軽屋敷がありましたが、現在はその1割以下にまで減少しています。 吉

旧彦根藩足軽組屋敷 善利組・旧磯島家住宅

善利組・旧磯島家住宅は、主屋が間口が4間半、奥行きが6間の切妻造り・桟瓦葺の中二階形式で、表に向かって下屋をかけます。出入口は、門をくぐって左に前庭を見ながら「どま」より「げんかん」に入る平入です。

旧彦根藩水主屋敷 水主小頭・旧磯﨑家住宅

彦根藩には船奉行の配下に水主衆がおり、平時には船小屋番舟役として松原湊に詰め、有事には船奉行に従って水軍を構成しました。水主衆の人員は、承応3年(1654年)の55人を初見に、2代井伊直孝代50人、3

石碑 松雨亭跡

松雨亭は、石碑より約70m西にあったとされ、1719年頃に開塾したと伝えられています。 澤村琴所(1686年〜1739年)。名は維顕。琴所は号。 父は彦根藩士・澤村左平太。14歳で彦根藩主・直道公の近

石碑 博習学校跡

明治政府の学制頒布により、明治7年(1874年)9月、葛籠町、西葛籠町、出町の子どもたちの学び舎として、小玉氏家屋において開校されました。 明治19年11月に簡易科葛籠町小学校と改称。明治22年11月

若宮八幡宮(産の宮)

中山道沿いに、足利義詮の伝説の「産の宮」があります。 南北朝の争乱の頃、足利尊氏の子義詮が、文和四年後光厳天皇を奉して西江州に戦い、湖北を経て大垣を平定し、翌五年京都に帰ることになりました。その時、義

石寺浜松並木

琵琶湖岸に約3キロにわたって続く石寺の松並木で、松の間からは、沖合約6.5キロ先に浮かぶ多景島を見ることができます。彦根八景の一つに数えられます。

中山道 松並木

彦根市には中山道が通り、江戸から数えて67次の63番目にあたる鳥居本宿と、次の高宮宿の2つの旧宿場町がありました。 高宮宿の南、葛籠町には松並木が残り、往時を偲べます。

石碑 中山道・彦根道(大堀町)

彦根道は、高宮宿の北隣に位置する大堀村で中山道を西に折れ、七曲りを経て橋向町で朝鮮人街道に合流する道であり、彦根城外堀の高宮口御門に至ります。彦根から高宮へ抜ける道であることから、高宮道とも呼ばれまし

福満遺跡(福満公園)

福満遺跡の発見は、大正7年にさかのぼり、旧城南小学校北側水田の地下約1mの深さのところから、弥生時代後期の土器が掘り出されたことによります。この土器は、現在、城南小学校に保管されており、この地方の弥生

歌碑 万葉歌碑

元号「令和」の出典となった万葉集。その万葉集は現存する日本最古の歌集で、収録されている約4,500首のうち、滋賀県を背景に詠まれた和歌は約108首あります。近江の風景が人々の心に深く刻まれていたことが

旧彦根藩武家屋敷 大村家住宅

近年、彦根藩ゆかりの武家屋敷はほとんど残っていません。 とくに50石から300石の知行取(ちぎょうどり)の武家屋敷については大村家を除けば皆無に近い状況にあります。 当家は主屋とともに門や長屋も残って

石碑 明治天皇行在聖跡

中山道沿いの高宮宿の中ほどに圓照寺の山門があり、その前に明治天皇行在聖跡の大きな碑があります。 慶長19年(1614年)、徳川家康は佐和山から永原寺へ向かう途中、ここ圓照寺で休息しました。現在「家康公

石碑 明治天皇鳥居本御小休所

鳥居本宿の有川家住宅の隣に石碑があります。 有川家住宅の右手の建物は明治11年の明治天皇北陸巡幸の時に増築され、10月の11日と21日に休憩所となりました。

石碑 日下部鳴鶴屋敷跡

日下部鳴鶴(1838~1922)は、彦根藩士出身で、日本近代の代表的な書家です。 滋賀大学経済学部キャンパス内に屋敷跡の石碑があります。 鳴鶴は天保9年(1938)8月18日に彦根藩士の田中惣右衛門の

石碑 中山道・北国街道分岐道標

滋賀県は東日本と西日本の中間に位置しているため、古来より日本を代表する交通の要所でした。 近江から北陸へ向かう道は、琵琶湖の西岸を通る西近江路と東岸を通る東近江路があり、西近江路を北陸道と呼び、東近江